10代は、ひばり児童合唱団に所属し童謡歌手として活躍
20代は、「夜明けのスキャット」の大ヒットで一躍流行歌手の仲間入り
30代で、姉・安田祥子と童謡コンサートを開始
いつも、「自分の歌うべき歌はなにかを探せたらいいな」と模索しつつ
いままでも、これからも、たおやかに、前向きに
由紀さおり 歌手
〝自分の歌〟を探して……
木村― 由紀さんはちょうど団塊の世代になるわけですね。
由紀― そうです。いつも競争でした。だいたい一クラスが五六人とか五七人で、一〇クラスぐらいありましたからね。だから受験から就職から、もうすべて競争でしたね。 ですから逆に、競合しないものを選ぶというか、ほんとに自分がやれるもの、自分がやりたいものを見つけるのは上手だったんじゃないでしょうか、この世代は。
木村― そうかもしれませんね。埋もれてしまいますよね、でないと。
由紀― そうです。なんかそういうことを考えて生きていかないと、いつも誰かにぶち当たるでしょう。先にそれをやらなきゃ、誰かがやるんだもん(笑)。
木村― ひばり児童合唱団へお入りになったのは、お姉さんの影響ですか。
由紀― そうです。父親の仕事の関係で、私が生まれた桐生から横浜に移ったんですが、住まいの近くの小学校の講堂で、ひばり児童合唱団が年に何回かおさらい会をするんです。「ヘンゼルとグレーテル」とか少し音楽的要素が強いものをやっていたんですけど、それを姉はいつも時間も忘れてずっと見ていたんですね。そんなに興味を持っているんなら、やらせてみようかということになったようです。 私、姉とはちょっと年齢差があったので、ひとりで留守番ができなかったから、母についていって、姉がやっていることを見ていて、家へ帰ってくると、一緒に歌ったりしてたんです。それなら「あっこちゃん(章子)も入っちゃいなさい」と言われて、姉は「ひばり組」という年長のクラスに入りましたけど、私は「すずめ組」(笑)。
木村― それからお姉さんはクラシック界に進むわけですね。
由紀― ええ。姉はクラシックの声楽家として芸大を目指してました。
木村― 由紀さんは同じ道をいきたくなかったんですか?
由紀― それもありますけど、姉と同じジャンルに進んでも、姉をぜったい超えられないと思っていましたから。私はお客さんの前で歌うのが好きだったの。拍手がほしいほうなので(笑)。まあ、それはクラシックも同じでしょうけど。
木村― でも妹さんらしいですね。お姉さんというのは、わりと両親がきちんと育てようとするじゃないですか、妹さんは、ちょっといいかって、余裕ができるじゃないですか、親のほうも。
由紀― 私は歌謡曲の歌い手になりたい、ヒット曲がほしいみたいなことを考えていたので、当時でしたら、先生の内弟子に入って、いい曲をいただいてデビューするのがいちばん近道だったんですけれども、なかなかそこまで踏み込めませんでした。私自身は歌謡曲というより、もう少しバタ臭いものをやりたかったので、ジャズの先生のところに行っていたんです、高校一年生ぐらいからでしたかね。
木村― そうですか。
由紀― あるとき、その先生から、「ジャズは客の前で歌わなければ自分のものにならないよ」と言われ、銀座のクラブに歌いに行ったんです。まだ高校生でしたから、六時半と七時半の二回のショーで、ビッグバンドの前歌を二曲歌わせてくれるんです。でも高校生でしたので、うちへ帰って着替えてお化粧して出かけて行くのがすごく嫌で、着替えるところもなかったし、八時半ぐらいに終わって帰ると、もうほろ酔いの人が、声をかけてきたりとか……そういうことで、うちへ帰ってきてワンワン泣いたりね、かわいかったんですよ(笑)。
木村― いやいや、今でも十分かわいいですよ。ところでお母さんは付いてこなかったんですか? 心配ですよね。
由紀― 母は見かねて、私が終わって出てくるのを楽屋の陰で待っていたら、そこの男性従業員の方に「そんなところに立ってないで、面接してあげるから」って言われて(笑)。
そんなことを経験していくうちに、コマーシャルソングを歌うようになり、そして高校三年生になって大学を受験するかどうか迷っていたときにデビューの話があって、将来歌いたいのだったらと、デビューするほうに賭けたんですけれども、ディレクター同士の派閥争いみたいなものに巻きこまれて……ぜんぜん日の目を見ることがなかったですね。それが大人の世界へ入る時のいちばんの苦い経験でした。