後白河天皇

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後白河天皇
第77代天皇
在位期間:1155年8月23日 - 1158年9月5日
在位中の時代 平安時代
在位中の年号 久寿
保元
在位中の首都 京都
別名 行真法皇
出生 1127年10月18日
死没 1192年4月26日
陵墓 法住寺陵
皇子女 二条天皇
亮子内親王
好子内親王
式子内親王
守覚法親王
以仁王
円恵法親王
定恵法親王
休子内親王
惇子内親王
恒恵
高倉天皇
静恵法親王
道法法親王
承仁法親王
真禎
覲子内親王
中宮 藤原忻子
女御 藤原琮子
平滋子
父親 鳥羽天皇
母親 藤原璋子

後白河天皇((ごしらかわてんのう、大治2年9月11日1127年10月18日) - 建久3年3月13日1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日1155年8月23日) - 保元3年8月11日1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇雅仁(まさひと)。譲位後は後白河院として院政を行うが、二条天皇や高倉天皇との対立により、院政停止に追い込まれることもあった。

目次

[編集] 系図

 
(71)後三条天皇
 
(72)白河天皇
 
(73)堀河天皇
 
(74)鳥羽天皇
 
(75)崇徳天皇
 
重仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚行法親王
 
 
最雲法親王
 
 
(77)後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実仁親王
 
 
覚法法親王
 
 
(76)近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
 
 
輔仁親王
 
(源)有仁
 
 


 
(77)後白河天皇
 
(78)二条天皇
 
(79)六条天皇
 
 
 
 
 
 
以仁王
 
某王(北陸宮
 
 
 
 
(80)高倉天皇
 
(81)安徳天皇
 
 
 
 
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
 
守貞親王
(後高倉院)
 
(86)後堀河天皇
 
(87)四条天皇
 
 
 
 
 
 
式子内親王
 
 
(82)後鳥羽天皇
 
(83)土御門天皇
 
(88)後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
(84)順徳天皇
 
(85)仲恭天皇
 
 
 
 
 
 
忠成王(岩倉宮)
 


[編集] 生涯

[編集] 親王時代

大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮藤原璋子の第四皇子として生まれる。藤原宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した(宇多天皇女御・藤原胤子三条天皇皇后・藤原娍子以来)。11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、田楽猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。母待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、同母兄崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。

その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で2男4女を産むが、終生重んじられることはなかった。

[編集] 保元の乱・平治の乱

久寿2年(1155年)近衛天皇が死去すると、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王即位までの中継ぎとして、立太子しないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、尚且つ存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。本来、新帝践祚→即位→立太子の順で行われるものが、新帝の即位式以前の同年9月に鳥羽法皇主導によって守仁親王の立太子が行われたことも後白河天皇即位の性格を示している。保元元年(1156年)、鳥羽法皇が死去すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。

保元3年(1158年)、後白河は守仁に譲位(二条天皇)。これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院と暲子内親王に譲られたため、後白河は頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。

二条の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。

この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日夜、院御所・三条殿は信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、内裏の一本御書所に幽閉される。結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河は乱の最中、幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほとんど省みられていなかった[1]

乱後、後白河は二条親政派の中心だった藤原経宗藤原惟方の逮捕を清盛に命じる。経宗・惟方は、信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となる。

[編集] 二頭政治と法住寺殿造営

後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河と二条に奏上され、前関白・藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。10月になると、後白河は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨守に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。

10月16日、後白河は法住寺殿の鎮守として日吉社・熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬や流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、鳥羽法皇の遺言で王家の家長となっていた美福門院が死去した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、翌永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。

二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者も少なくなかった。後白河には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河の寵愛は、専ら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・琮子は全く無視されていた。三条公教(琮子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。この時期の状況として『平家物語』には「院の近習者をば、内よりいましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるるの間、上下おそれをののいて、やすい心なし。ただ深淵にのぞむで、薄氷をふむに同じ」とあり、両派の緊張関係がうかがえる。

[編集] 二条親政の確立

9月3日、滋子は後白河の第七皇子(憲仁、後の高倉天皇)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『百錬抄』)。15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠平教盛藤原成親藤原信隆らが二条天皇により解官される。これ以降、後白河は政治決定の場から排除され、国政は二条と忠通の合議により運営されることになる。

12月17日、藤原育子が入内する。育子は閑院流出身(徳大寺実能の女)で忠通の養女だった。翌応保2年(1162年)2月19日、育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となり(大夫の九条兼実は14歳で名目のみ)、清盛も内裏を警護して二条支持の姿勢を明確にしたため、後白河院政派は逼塞を余儀なくされる。3月には配流されていた経宗が帰京を許され、入れ替わるように6月23日、実長の密告により二条呪詛の容疑で源資賢・時忠が流罪となった。鳥羽院政を支えていた貴族の認識では二条が正統な後継者であり、後白河はあくまで暫定という位置づけだった。

院政を停止された後白河は、信仰の世界にのめり込む。応保2年(1162年)正月の熊野詣では、千手観音経千巻を読んでいた時に御神体の鏡が輝いたので、「万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ(多くの仏の願いよりも、千手観音の誓願は頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟る、とお説きになられている)」と今様を歌い、千手観音への信仰を深くしている(『梁塵秘抄口伝集』)。

長寛2年(1164年)12月17日、後白河は多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する。造営は清盛が備前国を知行して行った。後白河は落慶供養の日に、二条の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」と嘆いたという(『愚管抄』)。蓮華王院・新日吉社・新熊野社には荘園が寄進され、後白河の経済基盤は強化される。二条は後白河の動きに警戒感を募らせていたが、翌永万元年(1165年)6月25日、病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位、7月28日に崩御した。

[編集] 二条親政派の瓦解と憲仁擁立

六条天皇は母の身分が低いことから中宮・育子が養母となり、摂政・基実を中心にして体制の維持が図られた。しかし政権は不安定で、後白河院政派はしだいに息を吹き返していく。12月25日、後白河は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王勅別当とする。院政期に親王宣下されるのは原則として正妃所生の皇子のみであり、憲仁は皇位継承の有資格者として位置づけられた。永万2年(1166年)7月26日に基実が急死すると、嫡子の基通が幼少のため、後白河の近臣・松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられた。この時に清盛は、殿下渡領を除く摂関家領を後家の盛子に相続させているが、後白河はこの措置を容認していたと考えられる。主柱であった摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。

後白河は二条親政派を切り崩すと同時に、自派の勢力拡大を強力に推し進める。7月に源資賢が参議に補されたのを皮切りに、8月には藤原成親・藤原光隆が参議、藤原成範・平頼盛が従三位となるなど、院近臣が次々に公卿に昇進した。一方、外戚でありながら離反した閑院流に対しては冷淡な態度をとり、権大納言の実定・実長が辞任している。実定は安元3年(1177年)にようやく還任するが、実長は生涯散位のまま留め置かれた。

10月10日、後白河は清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する。立太子の儀式は摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われ、九条兼実・清盛がそれぞれ東宮傅(とうぐうのふ)・春宮大夫となり、摂関家・平氏が憲仁を支えていることを誇示するものとなった。11月、後白河は清盛を内大臣とする。院近臣の昇進は大納言が限界であり、近衛大将を兼ねずに大臣になったことも極めて異例で、破格の人事だった。さらに実長が辞任した後の権大納言には、藤原師長を抜擢する。師長は保元の乱で配流されたが琵琶の才能を認められ、日和見的傾向の強い上流貴族の中では最も後白河に忠実な人物だった。

[編集] 院政開始と出家

後白河は人事の刷新を済ませると、御所の拡張と軍事力の整備に乗り出した。法住寺南殿は信頼の邸宅を移築したものだったが、手狭で儀式に対応しにくいことから、仁安2年(1167年)正月19日、新しく建て替えられた。法住寺殿は、儀式用の法住寺南殿、憲仁の住む七条上御所、後白河・滋子の住む七条下御所などに区分され、政治の中枢として機能する。28日には六条天皇の朝覲行幸があり、叙位・除目が行われた。

5月10日、後白河は重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す(『兵範記』)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任された。重盛は憲仁立太子の儀式で後白河の警護に当たり、9月の熊野詣にも供をするなど、平氏一門の中では後白河に近い立場にあった。清盛は家督を重盛に譲っても、依然として大きな発言力を有していたが、仁安3年(1168年)2月、病に倒れる。後白河は熊野詣から戻る途中だったが、日程を早めて浄衣のまま六波羅に見舞いに駆けつけており、その狼狽ぶりがうかがえる。兼実も「前大相国所労、天下大事只此の事に在る也。この人の夭亡の後、弥よ以て衰弊か」(『玉葉』2月11日条)と政情不安を危惧している。摂関以外の臣下の病では異例の大赦が行われ、19日、反対派の動きを封じるために、基房の閑院邸において六条天皇から憲仁への譲位が慌しく執り行われた(高倉天皇)。病の癒えた清盛は政界から身を引き、福原に別荘を造営して退隠する。

大嘗会などの即位の行事が一段落して、年が明けた仁安4年(1169年)正月、後白河は12度目の熊野詣に向かう。2月29日には賀茂社にも詣でるが、これらは出家の暇乞いのためであったという(『梁塵秘抄口伝集』)。3月13日には高野山に詣で、帰路の途中の20日、福原の清盛の別荘に立ち寄る。この時に行われた千僧供養は、以後の恒例行事となった。帰京して嘉応と改元された4月、滋子に建春門院の院号を宣下し、6月17日、法住寺殿において出家、法皇となる。出家の戒師など8人の役僧は、全て園城寺の門徒だった。11月25日、新帝の八十嶋祭が行われ、重盛の室・経子が勅使役として公卿を引き連れて六波羅から出立する。後白河は滋子とともに七条殿の桟敷で行列を見送っており、平氏との協力体制は磐石なものに見えた。

[編集] 政権分裂と徳子の入内

嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)。後白河が成親を擁護したのに対して、延暦寺と友好関係にある平氏は非協力的な態度を取り、事態は紛糾する。翌嘉応2年(1170年)2月には終息したものの、双方の政治路線の違いが浮き彫りとなった。4月19日、後白河は東大寺で受戒するために奈良に御幸する。清盛も合流して翌20日に並んで受戒するが、これは康治元年(1142年)の鳥羽法皇と藤原忠実の同時受戒の例に倣ったものだった(『玉葉』『兵範記』)。御幸から戻った21日、後白河は重盛を権大納言、成親を権中納言・検非違使別当に任じる。後白河と平氏の間に生まれた溝もひとまず解消し、高倉天皇元服の儀式に向けて準備が進められていった。

しかし10月21日、参内途中の摂政・基房の車を重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こり、元服定は延期となってしまう。盛子が摂関家領を相続して以来、基房は平氏に大きな不満を抱いていたが、この事件により更なる関係悪化が懸念された。30日、後白河は近臣・藤原光能を福原に遣わしている(『玉葉』同日条)。兼実は「何事なるかを知らず」とするが、殿下乗合事件の処理について清盛と協議するためだった可能性が高い。12月9日、基房が太政大臣となったのは、事件で被害を受けたことへの慰撫と考えられる。翌嘉応3年(1171年)正月3日、摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、天皇元服の儀式が執り行われた。

後白河院政は内部に利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機をはらんでいた。前年のような混乱を避けるためには政権内部の結束が不可欠だったが、そのような中で政権の強化・安定策として浮上したのが、高倉天皇と清盛の女・徳子の婚姻である。承安元年(1171年)7月26日、後白河は清盛から羊5頭と麝(じゃ)1頭を贈られる(『百錬抄』)。10月23日には滋子とともに福原に招かれて歓待を受けるが、これらは清盛による徳子入内の働きかけと見られる。後白河にとって、院政確立のために平氏の支援は必要だったが、平氏の発言力が増大して主導権を奪われることは避けたかったものと推測される。

12月2日、入内定が法住寺殿で行われ、徳子は後白河の猶子として入内することになった(『玉葉』『兵範記』)。白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内した待賢門院の例が用いられたが、「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」(『玉葉』11月28日条)と周囲からは疑問の声が上がった。兼実は「法皇の養女では天皇と姉妹の関係になり、忌むべきものだ」(『玉葉』12月14日条)と非難している。徳子入内への反発は大きかったが、この措置で後白河は徳子を自己の影響下に組み込み、発言力を確保することができた。14日、徳子は法住寺殿に参上して滋子の手により着裳の儀を行い、大内裏へと向かった。

[編集] 日宋貿易と寺社の統制

後白河と清盛の間には、政治路線の違いなど解消できない対立が存在したが、両者には旧来のしきたりや偏見にとらわれず目新しいものを好むという共通点もあった。後白河は清盛の進める日宋貿易に理解を示し、貴族の反対を抑えてその拡大に取り組んだ。

嘉応2年(1170年)9月20日、後白河は福原に御幸して宋人と会う(『百錬抄』『玉葉』同日条)。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。しかし畿内まで宋人が来ることは異例であり、外国人との接見は宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であったことから、兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と仰天した。平氏は代々、博多と大輪田泊をつなぐ瀬戸内海航路の整備・掌握に力を入れていたが、清盛の力だけで宋船を畿内まで入港させることは困難であり、後白河の助力が必要だった。同年5月25日、藤原秀衡鎮守府将軍に任じられているのは、日宋貿易における重要な輸出品である金を貢納させる狙いがあったと見られる。承安元年(1171年)7月26日、清盛は後白河に羊5頭と麝(じゃ)1頭を献上しているが、いずれも日本には生息しない動物であり日宋貿易によってもたらされたものと思われる。

承安2年(1172年)9月になると、宋から後白河と清盛に供物が届けられた。その送文には「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記されていた。「日本国王」は後白河を、「太政大臣」は清盛を指していたが、「日本国王」は中国皇帝が周辺諸国に授ける臣下の称号で「賜ふ」というのも日本を見下した文言であり、「頗る奇怪」であると非難の声が上がった。また供物を送ったのが皇帝・孝宗ではなく明州の刺史だったこともあり、貴族は相互に差別の無い外交に反するとして、品物は受け取らず返牒も出すべきではないと反発した(『玉葉』9月17日、22日条)。

しかし、翌承安3年(1173年)3月3日、左大臣・経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになった。返牒は藤原永範が草案を作成し、藤原教長が清書した。内容は進物の美麗珍重を褒めたもので、後白河は蒔絵の厨子に入れた色革30枚・蒔絵の手箱に収めた砂金百両、清盛は剣一腰・物具(鎧)を送った(『百錬抄』3月3日条、『玉葉』3月13日条)。これ以降、日宋貿易は公的な性格を帯びて本格化していく。輸入品である宋銭は国内に大量に流入して、重要な交換手段となった。

後白河が日宋貿易と並んで、積極的に取り組んだのが寺社の統制である。有力寺社はこの時期に荘園領主として発展し、各地で国司と紛争を引き起こしていたが、その中で特に強大だったのが「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺だった。興福寺と延暦寺は、藤原鎌足の墓がありながら天台宗である多武峯の帰属を巡って鋭い対立関係にあったが、承安3年(1173年)6月に抗争が激化して「昔より以降、南北大衆蜂起の中、今度より勝ること莫し」という情勢となった(『玉葉』6月23日条)。

後白河は紛争の調停に乗り出し、両寺に大衆の蜂起停止を厳命していたが、6月25日に興福寺が多武峯を襲撃して、鎌足の御影堂までも焼き払った。さらに張本の差し出し・僧綱の召還命令に対しても「三千衆徒張本なり」(『玉葉』7月21日条)と応じなかったため、後白河は法勝寺八講への興福寺僧の公請を停止し、興福寺別当・尋範らを解任した(『百錬抄』6月26日条、29日条)。

その後、興福寺は処分の撤回を求めていたが、10月29日に張本の覚興が配流されたため、11月3日に強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求した。後白河は官兵を出動させて入京を阻止する一方、使者を遣わして大衆の説得を試みるが交渉は平行線をたどり、7日の春日祭は延引となり、11日に予定されていた熊野詣の進発も危ぶまれる事態となった。ここに至って後白河は官宣旨を発し、東大寺・興福寺以下南都15大寺ならびに諸国末寺荘園の没官という前例にない厳しい処罰を下す(『百錬抄』『玉葉』)。南都15大寺領は2ヵ月後に返還されるが、後白河の強硬な政治姿勢は寺社に強い衝撃を与えた。平氏は大和国の国検・盛子の摂関家領相続で興福寺とは対立関係にあったため、この強訴では後白河に同調して迅速に行動したようである。

[編集] 厳島御幸と安元の御賀

承安2年(1172年)、法住寺殿の南に滋子御願の新御堂が建てられることになり、2月3日に上棟式が行われた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。これに先立つ嘉応2年(1170年)4月19日、後白河は東大寺で受戒するため奈良に向かう途中、宇治の平等院に立ち寄り、本堂で見取り図を閲覧している(『兵範記』同日条)。承安元年(1171年)11月にも滋子を連れて再訪しているので(『玉葉』11月1日条)、平等院をモデルに造営する計画だったと思われる。しかし、諸国からは御願寺造営で重い賦課が課せられたという訴えが相次ぎ、工事は難航した。承安3年(1173年)10月21日、御堂の完成供養が行われ、最勝光院と名付けられる(『百錬抄』『玉葉』同日条)。その華麗と過差は先例を越えるもので(『玉葉』)、「土木之装麗、荘厳之華美、天下第一之仏閣」(『明月記』嘉禄2年6月5日条)と称されるほど、大規模なものだった。

承安4年(1174年)3月16日、後白河は滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するため京都を出発、福原を経由して26日に到着した。交通手段は福原で清盛が用意した宋船であった可能性が高い。天皇もしくは院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、吉田経房は「已無先規、希代事歟、風波路非無其難、上下雖奇驚、不及是非」(『吉記』3月16日条)と驚愕した。厳島参詣には清盛に対する政治的配慮の面もあるが、単純に滋子を連れて霊験殊勝な厳島神社を見物したいという願望・好奇心が大きな動機だったと考えられる。後白河には后妃が何人かいたが、遠方に連れて行ったり、桟敷で共に並んで行列を見物したりするのは、滋子に限られていた。

厳島神社では回廊の下の波や山の緑といった風景を楽しみ、内侍の巫女の舞を見て「伎楽の菩薩が舞の袖をひるがえすのも、このようであったろうか」と感嘆する。やがて巫女が「我に申すことは必ず叶うであろう、後世のことを申すのは感心である。今様を聞きたい」と託宣を告げたので、「四大声聞いかばかり、喜び身よりも余るらん、われらは後世の仏ぞと、確かに聞きつる今日なれば四大声聞の方々はどれほど身に余る喜びを感じただろう、釈尊から後世において仏に成り得ると、確かに保証の言葉を聞いた今日であるから)」と今様を歌う。後白河は感極まって涙を抑えられなくなり、清盛は「この御神は後世の願いを申すことをお喜びになります」と説明した(『梁塵秘抄口伝集』)。

帰京後の7月8日、源雅通が右大将を辞任する。後任人事では重盛と花山院兼雅が候補に上がるが、「禅門の心重盛にあり」と清盛の意向が大きく作用した結果、重盛が任じられた(『玉葉』7月9日条)。翌安元元年(1175年)2月、雅通が死去して内大臣が空席となる。後白河と平氏の間で調整が行われたためか後任はすぐに決まらず、11月10日になってようやく藤原師長が任じられることが決定した(『玉葉』同日条)。師長の後任の大納言には重盛が、重盛の後任の権大納言には成親が昇格している。院近臣と平氏の対立抑止のためには、互いの勢力の均衡を保つことが重要だった。

安元2年(1176年)に後白河は50歳を迎え、3月4日から6日にかけて法住寺殿で賀宴が催された(『百錬抄』『玉葉』『安元御賀記』)。この時期の天皇・院は短命で50歳に達することは稀であり、白河法皇の康和の例に倣って盛大に執り行われた。宴には後白河・滋子・高倉天皇・徳子・上西門院・守覚法親王・関白・大臣・公卿・平氏一門が出席し、初日は舞と楽が披露され、翌日には船を浮かべて、管弦や蹴鞠が行われた。最終日の後宴では高倉天皇が笛を吹き、人々を感嘆させた。賀宴が無事に終わると、後白河は藤原隆季を使者として「此度の御賀に、一家の上達部、殿上人、行事につけても、殊にすぐれたる事おほし。朝家の御かざりと見ゆるぞ」と清盛に院宣を下す。清盛は金百両を入れた白銀の箱を返礼として送った(『安元御賀記』)。皮肉にもこの賀宴は、後白河と平氏の協力関係を誇示する最後の行事となった。

賀宴後の3月9日、後白河は滋子を連れて摂津国・有馬温泉に御幸する(『百錬抄』)。4月27日には比叡山に登り、天台座主・明雲から天台の戒を受け、延暦寺との関係修復を図った。しかし、6月に滋子が突然の病に倒れ、看護の甲斐もなく7月8日に死去した。相前後して高松院・六条上皇・九条院も死去しており、賀宴の華やいだ空気は一変して政局は混迷に向かうことになる。

[編集] 安元の強訴と鹿ケ谷事件

滋子の死去によって、後白河と平氏の関係は悪化の兆しを見せ始める。10月23日、藤原隆房が後白河の第九皇子(後の道法法親王)を抱えて参内、11月2日には時忠も第十皇子(後の承仁法親王)を連れて参内し、2人とも高倉の猶子となった。兼実は「儲弐(皇太子)たるべきの器か」(『玉葉』10月29日条)と憶測しているが、これは後白河による高倉退位工作の一環と考えられる。成人天皇の退位自体は白河・鳥羽院政期にもあったことで珍しくはなかったが、平氏にとって徳子に皇子が生まれる前の退位は絶対に認められるものではなかった。2人の皇子が高倉の猶子となったのは、後白河と平氏の対立を回避するための妥協策と思われるが、これは問題の先延ばしに過ぎず、両者の対立は徐々に深まっていく。

12月5日に除目が行われ、院近臣の藤原成範・平頼盛が権中納言となる。空席となった参議には蔵人頭の藤原実宗藤原長方が昇任したため、後任の蔵人頭の人事が焦点となった。ここで後白河は、院近臣の藤原定能・藤原光能を押し込んだ。定能は道綱流、光能は御子左家の出身で長く公卿を出していない家系であり、位階上臈の藤原雅長平知盛を超えたことについて、兼実は「希代」と評している(『玉葉』同日条)。一方、翌安元3年(1177年)正月14日には平氏による巻き返しがあり、重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、両大将を平氏が独占した。ただし宗盛は滋子の猶子で、後白河との関係は良好だった。2月3日の宗盛の拝賀には殿上人・蔵人を前駆として遣わしている。3月14日には福原に御幸、千僧供養に参加して滋子の菩提を弔った。

平氏との関係は修復されたかに見えたが、ここで新たな要素として延暦寺が登場する。加賀国目代・藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、加賀守・藤原師高の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。3月28日、後白河は目代・師経を備後国に配流するが、延暦寺の大衆はあくまで師高の配流を求め、4月13日に神輿を奉じて内裏に向かった。後白河は大衆の行動を「大衆已に謀叛を致す」(『玉葉』4月14日条)、「訴訟にあらず。已に謀叛の儀に同じ」(『玉葉』4月17日条)と断じて、重盛に防御を命じる。ところが重盛の軍兵が神輿に矢を当てるという失態を犯したため、情勢は一挙に不利となった。14日、高倉天皇と徳子は内裏から法住寺殿に脱出するが、その様子は「禁中の周章、上下男女の奔波、偏に内裏炎上の時の如し」(『玉葉』同日条)であったという。

院御所議定では、内侍所(神鏡)も法住寺殿に移すべきか議論されたが「内侍所が洛外に出た例はない」と反対意見が出たため沙汰止みとなった。後白河は内侍所の守護を平経盛に命じるが、経盛は「左右は入道の許しにあり」と取り合わず、宗盛も「経盛は一所(天皇)に候すべきの由、入道申す所なり」と弁護したため、やむなく源頼政を内裏に派遣した(『玉葉』19日条)。後白河は神輿を射た責任を認め、20日、師高の尾張国への配流、神輿を射た重盛家人の禁獄の宣旨が下された。

4月28日、安元の大火が起こり、大内裏・京中の多くを焼き尽くした。5月4日、後白河は天台座主・明雲を逮捕し、翌5日には座主の地位から解任する。5月11日になると、嘉応の強訴と今回の事件は明雲が首謀者であり、「朝家の愁敵」「叡山の悪魔」と糾弾して法家に罪名を勘申させるとともに、所領を全て没収する(『玉葉』同日条)。後任の天台座主には覚快法親王を任じた。この措置に対して延暦寺が蜂起するという情報が流れ、「洛中驚目、偏に軍陣の如し」と緊迫した情勢となる(『百錬抄』5月13日条)。事態の急転の背景には、師高の配流を嘆く西光の讒言があったとされる。

15日、延暦寺の僧綱が法住寺殿に参上して、座主配流の例はないことを理由に宥免を訴えるが、後白河は拒絶する。法家が、謀叛の罪により罪一等を減じて流罪と勘申したのを受けて、20日、明雲罪名について公卿議定が開かれた。藤原長方は「衆徒訴訟により参陣を企て相禦るる間、自然合戦に及ぶ。偏に謀叛と謂ふべからず」として還俗・流罪の宥免を主張し、他の公卿も同調した(『玉葉』同日条)。しかし後白河は議定の決定を「時議に叶はず」と一蹴して、21日に明雲を伊豆国に配流した(『百錬抄』同日条、『玉葉』22日条)。

23日、大衆は配流途上の明雲の身柄を奪還する。後白河は伊豆国知行国主で配流の責任者だった頼政を譴責し、延暦寺武力攻撃の決意を固める。ところが兵を率いる重盛・宗盛が「清盛の指示がなければ動かない」と出動を拒否したため、業を煮やした後白河は、福原から清盛を呼び出して攻撃を要請する。28日の会談で清盛は出兵を承諾するが、内心は悦ばなかったという。29日、武器を携帯して京中を往来する輩の捕縛、諸国司への延暦寺の末寺・荘園の注進、近江・越前・美濃の国内武士の動員が行われた(『玉葉』29日条)。承安3年(1173年)の興福寺の時と同様に、延暦寺領荘園の停廃を意図していたと見られる。

しかし、6月1日に多田行綱が平氏打倒の謀議を清盛に密告したことで状況は激変、西光は捕らえられて斬首、成親は配流、他の院近臣も一網打尽にされた(鹿ケ谷の陰謀)。5日には明雲が召還され、6日には師高が清盛の家人の襲撃を受けて惨殺される。この事件により後白河は有力な近臣を失い、政治的地位の低下を余儀なくされる。7月29日、天下の物騒は保元の乱の怨霊によるものとされ、鎮魂のために讃岐院の院号を崇徳院に改め、藤原頼長には太政大臣正一位が贈られた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。

[編集] 鹿ケ谷事件後の情勢

鹿ケ谷事件により、高倉退位工作と延暦寺攻撃は吹き飛んだ。失意の後白河に更なる追い討ちとなったのが、滋子の一周忌における法華八講の挙行を巡る紛糾である。高倉天皇は閑院を里内裏としていたが、清盛の意向で八条殿に行幸していた。後白河は閑院に戻って法華八講を行うことを命じるが、兼実邸を訪れた日野兼光は「無断で閑院に戻ると清盛が内心どう思うか分からない。八条殿で挙行しても問題はない」と語り、決定は先延ばしにされた(『玉葉』安元3年6月21日条)。後白河は妻の冥福を祈る仏事の場所すら自由に決められなくなっていた。

後白河の政治力低下に反比例するように、17歳となった高倉天皇が政治的自立の傾向を見せ始める。「今度の除書一向に内の御沙汰たるべし。院知ろし食すべからざるの由これを申さると云々」(『玉葉』治承元年11月15日条)と後白河が全く政務に関与しないケースも現れた。もっとも弱体化したとはいえ後白河の院政も継続していたため、かつての二条天皇の時と同じく二頭政治となった。

治承2年(1178年)正月、後白河は園城寺で権僧正公顕から伝法灌頂を受けることを計画するが、灌頂の賞により園城寺に戒壇が設立されることを恐れる延暦寺は、末寺荘園の兵士を動員して蜂起、園城寺を焼き払う構えを見せる(『玉葉』『山槐記』正月20日条)。後白河は僧綱を派遣して延暦寺を譴責するとともに、宗盛を福原に向かわせて清盛を呼び出す。しかし清盛は呼び出しに応じず、後白河は園城寺御幸と灌頂を断念せざるを得なかった(『山槐記』正月25日条、『百錬抄』2月1日条、『玉葉』2月5日条)。この事件は大きな遺恨となり、5月になると後白河は報復措置として最勝講への延暦寺僧の公請を停止する(『玉葉』『山槐記』5月16日条)。延暦寺との衝突を望まない高倉天皇から再三のとりなしがあったが、後白河は灌頂を阻止した罪科によるとして耳を貸さなかった。

このように院政と親政の並立は困難で、二頭政治は早くも行き詰まる。歴代の治天の君は幼帝を擁立することで二重権力となることを回避していたが、平氏の支援を受けている高倉を退位させることは、後白河にはもはや不可能だった。平氏の意図は高倉親政に速やかに移行することで、後白河を政界から引退させることにあったと推測される。

5月24日、時忠が高倉に徳子の懐妊を伝える(『山槐記』同日条)。後継者の不在が高倉の弱みだっただけに皇子誕生の期待が高まり、朝廷は出産のための祈祷に明け暮れた。後白河も徳子を養女としていたことから、平氏へのわだかまりをひとまず解いて安産祈願に参加し、11月12日、高倉の第一皇子が無事に誕生する。清盛からの立太子の要請を受けて、後白河は兼実に年内の立太子の是非を諮問した。兼実は「2歳、3歳で立太子の例は良くなく、4歳まで待つのは遅い」と奏上し、年内の立太子が決定される(『玉葉』11月28日条)。12月9日、皇子に親王宣旨が下り「言仁」と命名、15日に立太子するが、立太子の儀式は六波羅で挙行され、春宮坊は平氏一門で固められた。皇太子周辺から排除される形となった後白河は、再び平氏への不満と警戒を強めることになる。それでも翌治承3年(1179年)3月の段階では、後白河が厳島巫女内侍の舞を見るため清盛の西八条邸に御幸、翌日にも院御所・七条殿で同じ舞が行われるなど両者の交流は辛うじて保たれていた(『山槐記』3月17日、18日条)。

[編集] 院政停止

6月21日、後白河は小松殿に御幸し、重病の重盛を見舞った(『山槐記』同日条)。重盛は平氏一門では親院政派であり、清盛との対立を抑える最後の歯止めだった。それに先立つ17日、清盛の娘・白河殿盛子が死去している。盛子の死による摂関家領の帰属問題は、後白河と清盛の全面衝突を惹起することになる。

前関白・基実没後の摂関家領は後家の盛子が管理していたが、これはあくまで嫡男・基通が成人するまでの一時的なものだった。盛子の早すぎる死は、基通への継承という清盛の既定路線を大きく狂わせることになる。この時点で非参議右中将に過ぎない基通が、関白氏長者の基房を差し置いて遺領を全て相続することには無理があった。そこで平氏の打った方策が、盛子が准母となっていた高倉天皇への伝領である。盛子が死去してわずか2日後の19日には、時忠が中山忠親に「庄園一向に主上に附属し奉られ了はんぬ」と通告し(『山槐記』同日条)、20日には兼実も「白川殿の所領已下の事、皆悉く内の御沙汰あるべし」という情報を入手している(『玉葉』同日条)。この措置は、基通が成長して関白氏長者になるまでの時間稼ぎと見られる。

この措置に不満を募らせた基房は、氏長者として遺領相続の権利があることを後白河に訴える。『愚管抄』には「白川殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨アリ。院モヤウヤウ御沙汰ドモアリケリ」とあり、基房の訴えを聞いた後白河が遺領問題に介入したとする。やがて「内の御沙汰」となったはずの盛子遺領は、院近臣・藤原兼盛が白河殿倉預に任じられて後白河の管理下に入った。これは高倉天皇領に対して、王家の家長の権限を行使したものと考えられる。この時期、在位中の天皇の所領管理は後院が行っており、王家の家長である治天の君が後院を掌握していた。

後白河・基房と清盛の対立は、10月9日の除目で決定的なものとなる。仁安元年(1166年)以来の重盛の知行国・越前が「入道ニモトカクノ仰セモナク」(『愚管抄』)没収されて院分国となるが、それにも増して衝撃だったのが清盛の推挙する20歳の基通を無視して、基房の子でわずか8歳の師家が権中納言に任じられたことである。この人事は師家がいずれ氏長者となり、後白河の管理下に入った摂関家領を継承することを意味した。この強引な措置は、摂関家出身の兼実でさえも「法皇の過怠」「博陸の罪科」であり国政を乱すものと批判している(『玉葉』11月15日条)。さらに後白河と基房が平家党類を滅ぼす密謀を練っているという情報も流れた(『百錬抄』11月15日条)。

これに対して清盛は、11月14日にクーデターを起こす(治承三年の政変)。基房・師家父子は直ちに罷免されるが、これは高倉天皇の公式命令である宣命・詔書によって執行された。院政は天皇の後見であることを権力の源泉としていたため、天皇の側が独自の支持勢力を背景に攻撃を仕掛けてくると抵抗できないという構造的な弱点を抱えていた。清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は静憲を派遣して「自今以後、万機に御口入有るべからざる(今後二度と政務に介入しない)」(『百錬抄』11月15日条)ことを申し入れるが、20日、住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉の身となった。ここに後白河院政は完全に停止された。

[編集] 寺社勢力の反発

後白河は鳥羽殿で厳しい監視下に置かれ、藤原成範・脩範・静憲(信西の子)や女房2、3人以外の御所への出入りは禁じられた。幽閉の翌21日、清盛は院庁年預・中原宗家に院領目録を書き出させ、翌12月には後院庁が設置される(『百錬抄』)。これらは後白河から院領を没収して、高倉天皇領に組み込むために必要な措置だった。治承4年(1180年)2月21日に高倉天皇は譲位、後院庁の院司(藤原隆季・吉田経房・藤原長方)はそのまま高倉院庁別当に異動して、高倉院政が発足する。幽閉生活の後白河は正月下旬より病気で憔悴状態となり、宗盛の許可を得て診察に赴いた典薬頭・和気定成に「もう一度、熊野詣に行きたい」と涙ながらに訴えたという(『山槐記』2月27日条)。

3月になると高倉上皇は清盛の強い要請により、厳島神社への参詣を計画する。しかし上皇の最初の参詣は、石清水八幡宮・賀茂社・春日社・日吉社のいずれかで行うことが慣例だったため、宗教的地位の低下を恐れる延暦寺・園城寺・興福寺は猛然と反発した。三寺の大衆が連合して高倉・後白河の身柄を奪取する企ても密かに進行していたが、後白河が宗盛に大衆の動きを伝えたことで露顕する(『玉葉』『山槐記』3月17日条)。宗盛は通盛・経正を鳥羽殿に、知盛を高倉上皇の御所に派遣して警護を厳しくすると、福原の清盛に今後の指示を仰いだ。清盛は後白河の協力的姿勢に幾分態度を軟化させたらしく、女房2人(京極局・丹後局)の伺候を認めた(『山槐記』3月17日条)。洛南の鳥羽殿は京中から遠く警備に不安があったため、後白河を五条大宮の藤原為行邸に遷すことになったが、宗盛が「日次(ひなみ)よろしからず」と判断して延引となった(『玉葉』3月19日条)。

[編集] 動乱の始まり

5月10日、清盛が上洛して武士が洛中に充満する。14日、後白河が武士300騎の警護により八条坊門烏丸邸に遷った(『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は藤原季能邸とする)。これらの動きは以仁王の謀叛が発覚したことによるものだった。以仁王の挙兵は短期間で鎮圧されるが、その背後には八条院の存在があり、後白河と密接な関係にある園城寺、関白配流に反発する興福寺も与同したことは、成立したばかりの高倉院政にとって大きな脅威となった。6月2日、清盛は敵対勢力に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、平氏の本拠地・福原への行幸を強行する。後白河も強制的に同行させられ、福原の教盛邸に入った。

福原での新都建設は準備不足のため難航し、貴族だけでなく平氏一門・高倉上皇・延暦寺からも反対の声が上がった。そして10月の富士川の戦いの大敗で軍事情勢が極度に悪化したことから、清盛も還都に同意せざるを得なくなる。11月23日に福原を出発した一行は、26日に京都に到着、後白河は六波羅泉殿に入った(『山槐記』同日条)。30日、東国逆乱についての公卿議定が開かれるが、その席上で藤原長方が後白河の院政再開と基房の召還を主張する(『山槐記』同日条)。この発言は「長方卿善言を吐く」(『百錬抄』11月30日条)、「時勢に諛はず、直言を吐く」(『玉葉』12月3日条)と貴族から広範な支持を集めたらしい。その効果によるものか、16日夜に基房が配流先の備前から帰京し、18日には清盛が「法皇天下の政を知し食すべき由」を後白河に再三申し入れる。後白河は当初辞退していたが最後には承諾して、讃岐・美濃を院分国とすることも決まった(『玉葉』12月18日条)。

この時期、高倉の病状が「今においては起き揚り給ふ能はず」(『玉葉』12月21日条)というほど悪化していたことが、清盛が譲歩した要因の一つとして考えられる。高倉が死去すれば幼児の安徳が政務を執れない以上、後白河の院政再開しか道は残されていなかった。清盛は後白河の院政を無条件で認めるつもりはなく、園城寺・興福寺を焼き払うとともに、翌治承5年(1181年)には東大寺・興福寺の僧綱以下の任を解いて寺領荘園を没収(『百錬抄』正月4日条)、院近臣の平知康・大江公朝、甲斐源氏の武田有義などの危険分子を解官するなど(『玉葉』正月8日条)、可能な限り後白河の勢力基盤削減を図った。

[編集] 高倉上皇と清盛の死

正月12日には高倉上皇が危篤状態となるが、ここで高倉没後に中宮を法皇の後宮に納めるという破天荒な案が飛び出し、清盛・時子も承諾したという情報が流れ、見舞いに駆けつけた兼実は「およそ言語の及ぶ所にあらざるものなり」と呆然とした(『玉葉』正月13日条)。後白河も、この平氏の策謀には辟易としたらしく「平に以て辞退」する。徳子の身代わりとして、清盛の別の娘・御子姫君が後白河の猶子として後宮に入るが、「ただ付女の如くなり」と全く省みられることはなかった(『玉葉』正月30日条)。

14日に高倉が崩御したため、「天下万機、法