二条天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

二条天皇
第78代天皇
在位期間:1158年9月5日 - 1165年8月3日
在位中の時代 平安鎌倉時代
在位中の年号 保元
平治
永暦
応保
長寛
永万
出生 1143年7月31日
死没 1165年9月5日
陵墓 香隆寺陵
皇子女 六条天皇
僐子内親王
尊恵法親王
中宮 藤原育子
父親 後白河天皇
母親 源懿子

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日1143年7月31日) - 永万元年7月28日1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日1158年9月5日) - 永万元年6月25日1165年8月3日))。守仁(もりひと)。

目次

[編集] 系譜

後白河天皇の第一皇子。母は源有仁の養女・贈皇太后懿子(よしこ)。外祖父は藤原経実。祖父である鳥羽法皇の后・美福門院の養子となる。

[編集] 系図

 
(77)後白河天皇
 
(78)二条天皇
 
(79)六条天皇
 
 
 
 
 
 
以仁王
 
某王(北陸宮
 
 
 
 
(80)高倉天皇
 
(81)安徳天皇
 
 
 
 
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
 
守貞親王
(後高倉院)
 
(86)後堀河天皇
 
(87)四条天皇
 
 
 
 
 
 
式子内親王
 
 
(82)後鳥羽天皇
 
(83)土御門天皇
 
(88)後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
(84)順徳天皇
 
(85)仲恭天皇
 
 
 
 
 
 
忠成王(岩倉宮)
 


[編集] 略歴

生母の懿子(よしこ)が急死したことで祖父・鳥羽法皇に引き取られ、美福門院が「襁褓(むつき)の中」より養育した(『山槐記』永暦元年12月4日条)。近衛天皇が即位しており、更に同じく美福門院の養子として先に入っていた重仁親王崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは薄く、仁平元年(1151年)10月、僧侶となるために伯父である覚性法親王のいる仁和寺に入った(9歳)。その後、孫王は仏典をよく読みこなし「ちゑふかくおはしましけり」(『今鏡』)と評判になった。仁平3年(1153年)、近衛は病気で一時重態となり、近衛の要請を受けた関白・忠通が鳥羽法皇に孫王への譲位を奏請した。近衛に養女を娶わせていた忠通は将来近衛が健康を回復して皇子を儲けた場合を考えて、美福門院の養子である孫王を近衛の兄として皇位継承に優位な立場を持つ「雅仁親王の子」ではなく、「近衛の弟」として即位をさせる予定であったとされる。ただし、この奏請が突発的であったために忠通の父である元関白忠実はこの案について父親の雅仁親王が黙っている訳がないと指摘して、忠通を「関白狂えるか」と非難し、鳥羽法皇も忠実に「朕(鳥羽)と予(忠実)と即世(死去)すれば、天下将に乱れんとす。ああ哀しきかな」と嘆き、忠通の弟・頼長も近衛の病気自体を疑っている(『台記』仁平3年9月23日条)。だが、現実には近衛の病気が次第に重くなっていった。

久寿2年(1155年)7月23日に近衛が崩御すると鳥羽法皇と藤原忠通・源雅定三条公教らによって「王者の議定」が行われて、孫王即位までの中継ぎであることを条件に、雅仁親王(後白河天皇)が即位した。鳥羽法皇が以前忠通が提案した雅仁を飛ばして孫王を即位させる方式を提案したが、今度は忠通が近衛が亡くなった今、孫王の皇位継承者としての地位を確たるものにする必要から雅仁を一旦立てる「道理」を唱えたとされている(『愚管抄』、『玉葉治承2年8月14日条にも類似の記述がある。『山槐記』永暦元年12月4日条にはこれを美福門院とするが、『今鏡』にも藤原忠通が主導したことが記されている)。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌年3月5日には美福門院の皇女・姝子内親王を妃に迎えるなど、美福門院の全面的な支援を受けた。

保元3年(1158年)8月11日、後白河は守仁に譲位する(16歳)。これは「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった[1]。二条天皇を支える勢力として、藤原伊通(美福門院の従兄弟)・藤原経宗(二条生母・懿子の弟)・藤原惟方(二条の乳母・俊子の子)らが集結して、二条親政派を形成した。ここに、二条親政派と後白河院政派の対立が始まった。二条は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河との関係は冷淡なものであった。平治元年(1159年)12月に平治の乱が起こると、二条は反乱軍に幽閉されるが清盛の六波羅邸へ避難する。『平家物語』によると女房車の中を覗いた武士が、二条を女房と見誤ったとする。女性のような美貌を持った美男子だったという。

乱が終結した直後の12月29日に美福門院の八条邸に行幸し、翌正月には太皇太后・藤原多子を入内させる(二代の后)。『平家物語』は多子の入内を二条の独断とするが、後見の美福門院や側近の経宗・惟方がこのような重大問題に関与しなかったとは考えにくく、二条の立場を固めるための政略的な婚姻と推測される。しかし、3月に経宗・惟方が後白河の命により配流されて失脚、7月には藤原隆信雅長院昇殿停止処分を受け、8月には中宮・姝子内親王が病により出家[2]、11月には後見の美福門院が死去するなど二条親政派の要人が次々に消えて、二条の立場は不安定となり後白河院政派が勢力を拡大した。表面的には「院・内申シ合ツツ同ジ御心ニテ」(『愚管抄』)というように二頭政治が行われたが、両派の対立は深く「上下おそれをののいてやすい心なし、ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに同じ」(『平家物語』)という状況であった。

二条が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛だった。伊通は太政大臣として二条を補佐し、政道の意見書『大槐秘抄』を著した。また乳母・平時子を従三位典侍にするとともに(『山槐記』)、時子の夫・清盛を検非違使別当・中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。応保元年(1161年)9月、後白河と平滋子の間に生まれた第七皇子(後の高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚すると、二条は後白河近臣の平時忠平教盛藤原成親藤原信隆を解官した。後白河の政治介入は停止され「主上二条院、世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ」(『愚管抄』)という状況となる。実権を掌握した二条は、親政の拠点を押小路東洞院の内裏に据えて清盛に警護させた。12月には美福門院の皇女・暲子内親王に八条院の院号を与えて准母となし、出家していた姝子内親王にも高松院の院号を与えた。さらに、忠通の養女・藤原育子(むねこ、実父は徳大寺実能)を中宮として、関白・基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。応保2年(1162年)には叔父の経宗を召還する一方、自らを呪詛した時忠・源資賢を配流するなど着々と政治基盤を固めていった。

二条は悪僧神人の統制令や荘園整理など、信西の政策を踏襲して積極的な政務を展開する。政治から排除された後白河は信仰の世界にのめりこみ、蓮華王院を造営して供養の日に二条の行幸と寺司への功労の賞を熱望するが、二条が拒んだことから後白河は恨みを抱いたという(『愚管抄』)。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、二条は後白河の院政復活の動きに警戒心を抱くことになる。長寛2年(1165年)2月、太政大臣の伊通が亡くなり、自らも病に倒れた。6月には前年に生まれた実子の順仁親王(六条天皇、中宮・育子の養子)の立太子を行うとその日のうちに譲位し、7月に押小路東洞院で崩御した。

二条は優れた人物で「末の世の賢王におはします」(『今鏡』)と賞賛され、愚昧とされた父・後白河とは対照的だった。一方で、後白河との対立は生涯に渡って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」(『源平盛衰記』)という世評もあった。

[編集] 脚注

  1. ^ もっとも、鳥羽法皇から遺命を授けられて、二条天皇親政実現までの方策を任されたのは信西その人であり、平治の乱で信西が殺されたのは二条天皇親政を阻止するための後白河上皇の命令であったとする説もある。(河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002年))
  2. ^ 『兵範記』保元元年(1156年)3月5日条には姝子内親王について「前斎院依御猶子」という記述があり、彼女が統子内親王(上西門院、後白河の同母姉)の猶子だったことが確認できる。そのため、姝子内親王は後白河院政派に属している、という指摘もある(佐伯智広「二条親政の成立」『日本史研究』505、2004年)。

[編集] 后妃・皇子女

  • 右馬助・源光成女
  • 第一皇子: 尊恵法親王(1164-1192) - 高松院猶子、大僧都
  • 大蔵大輔・伊岐致遠女
  • 第二皇子: 順仁親王(六条天皇)(1164-1176) - 育子猶子

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓・霊廟

京都市北区平野八丁柳町の香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)[1]に葬られたとされる。 香隆寺陵は、円丘。永万元年7月28日、二条院で崩御され、8月7日、香隆寺の北の野で火葬し、遺骨を一時香隆寺本堂に蔵め、二条院を移して三昧堂を建て、嘉禎2年5月17日、遺骨をこの堂に蔵めた。中世に山稜の所在を失い、元禄年間の諸陵探索の際に定説を得なかった。黒川道祐は「雍州府志」で「二条院陵在洛北船岡山北麓、陵上有五輪石塔」といい、「前王廟陵記」はこれに従い、「歴帝陵考」で「愛宕郡舟岡山乾蓮台寺境内畑中に古家あり、後朱雀、堀河、二条三帝難決」という。陵上の石塔は千利休がその九輪で自らの塔を作りその他の部分は手水鉢を作ったという。もって山稜荒廃の状況を察することができよう。幕末の修陵の際にもついに決定せず、明治22年6月1日、治定を見ておおいに修治を加えられた。

[編集] 関連事項

先代:
後白河天皇
天皇
第78代: 1158-1165
次代:
六条天皇