ケネディ大統領暗殺事件

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ケネディ大統領暗殺事件(―だいとうりょうあんさつじけん)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ1963年11月22日(金曜日)現地時間12:30(18:30 UTC)にテキサス州ダラス暗殺された事件。ケネディは、ディーレイ・プラザで自動車パレードを行っていたときに複数の銃弾を受け致命傷を負った。

目次

[編集] テキサス遊説の背景

暗殺事件のタイムライン

現地時間、UTCには6時間を加える
特記無い場合は
全て11月22日に発生


ケネディにジョンソンとコナリー
テキサス遊説の提案

テキサス遊説の発表

オズワルドメキシコ市に行く
オディオがオズワルドに会う

オズワルドが
テキサス教科書倉庫に
職を得る

自動車パレード
コースの発表


Dallas Morning News紙上に
ケネディをお尋ね者とする
広告が掲載される

ケネディがダラス、
ラブ・フィールド空港に到着

オズワルドが
カフェテリアで目撃される

武装した男が
貯蔵所の西側窓で目撃される

武装した男が
貯蔵所の東側窓で目撃される

パレード車列がディーレイ・プラザ
に進入する予定時刻

パレード車列が実際に
ディーレイ・プラザに進入した時刻

ケネディが銃撃される

オズワルドと警察の
最初の遭遇

警察の草深い
丘の駐車場と
鉄道操車場の捜索

テレビニュースが放送される

ケネディ(既に死亡)
が最後の終油の秘跡を受け取る

オズワルドが
劇場に入るところを目撃される

ケネディの
死亡が公表される

オズワルドがテキサス劇場内
にいるという警察の発表

警官がテキサス劇場内の
オズワルドを逮捕しようと試みる

ケネディの遺体が
パークランド病院から
エアフォース・ワンに移送

リンドン・B・ジョンソンが
大統領就任宣誓

エアフォース・ワンが
ワシントンD.C.近くの
アンドリュース空軍基地に到着

オズワルドがティピット
殺害の罪で逮捕される

オズワルドがケネディ
暗殺の罪で逮捕される

オズワルドが
ジャック・ルビーに射殺される


6月6日


9月

9月25日



10月第3週



11月22日
前日

当日朝



11:40


12:15-12:20


12:15


12:16


12:25


12:29


12:30


74-90 秒後



12:30-39

12:40


13:00


約 13:35頃


13:38


13:40


13:50



14:00 後


14:38



約 17:00頃


19:00


23:36


11月24日 11:21

ケネディ大統領は11月22日のダラス遊説を三つの理由から決定した。

  • 1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
  • 再選へ向けての選挙活動の開始。
  • ケネディ-ジョンソンのテキサス州での辛勝(ダラスでは共和党に敗北した)から、政治的に対立していたテキサスの民主党有力メンバーとの関係回復のため。

ダラス郊外のダラストレードセンターでスピーチを行うために、自動車パレードはラブ・フィールド空港からディーレイ・プラザを含むダウンタウンを通過することが計画された。大統領の車は1961年式のリンカーン・コンチネンタル、オープントップに改造されたリムジンであった。大統領との同乗者は妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリー、その妻ネリー、ホワイトハウスのシークレット・サービス第三助手ロイ・ケラーマン、シークレット・サービスでドライバーのビル・グリアーであった。リムジンは防弾ハードトップ未装備で、防弾装備を持つ大統領専用車は1963年には存在しなかった。そのような装備を持つリムジンの計画は1963年10月に示されたばかりであった。

ダラスの至る所、特に自動車パレードルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。さらに11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上には、ケネディへの批判者達による、ケネディをお尋ね者とする黒枠付きの全面広告が掲載された。

[編集] 暗殺

車列はケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために二度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に一人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。12:30にケネディのリムジンはテキサス教科書倉庫の正面にゆっくり接近した。次にリムジンはゆっくりと120度方向を変え、教科書倉庫の直接前からわずか20メートル離れた位置にあった。

リムジンが教科書倉庫を通過した時、およそ6~9秒の間にケネディは狙撃された。暗殺の間リムジンの時速は9マイルから13マイルであった。ウォーレン委員会はその後、三発の銃弾の内一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通しコナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも二発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認める。

第一射の後群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。コナリー知事が負傷後「ノー、ノー、ノー、彼らは私たち全員を殺す!」と叫び、それによってドライバーのビル・グリアーは状況が判明した。狙撃の最中にグリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認し、再び前方を見た。彼は再び後方に振り向き(この時点でリムジンのブレーキランプが点灯している様が撮影されている)頭部に致命傷を負ったケネディを実際に目撃したただ一人の人物であった。

ケネディが頭部を銃撃されたとき、わずかに前進し25~50mm倒れた。次に起こった事態は暗殺調査が継続されることになった一つの原因である。彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになった。その後彼は後部座席のクッションに垂直にぶつかり、死んだように崩れ落ち、彼の胴体はすぐに妻のいた後方左側に移動した。ケネディが致命傷を負った後、リムジンは速度を上げディーレイ・プラザを出てパークランド・メモリアル病院へ向かった。

[編集] 負傷者

大統領のリムジンに同乗していたテキサス州知事ジョン・ボウデン・コナリーは重傷を負ったが生き残った。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これはまた議論される)。医師はコナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったとその後語った。

ジェームズ・ターグ(暗殺を目撃した観衆の一人)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。

[編集] 記録された暗殺

パレード車列が通過する地点は重要なものと考えられなかったため、ラジオ及びテレビは暗殺現場を生で中継しなかった。KBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方に位置したメディアを除いて、ほとんどの報道機関はトレードセンターでケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディーレイ・プラザでの暗殺現場はサイレントの8mmフィルムに26.6秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。486コマのこのフィルムが多くの研究に用いられたのは、暗殺の直接の資料になるからである。

ザプルーダー・フィルムはビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)などで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、「後方に」動いていることから、その致命的な射撃は「前方から」行われたように見える。(射撃の向きについてはノートも参照) 直後に大統領夫人が動揺した様子で頭が吹き飛んだ「後方に」目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、「後方に」吹き飛んだ大統領の脳断片を拾うために「後方」部分に這い出たことを裁判で後に証言している。実際、彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。このフィルムは一度FBIに没収され、返却された時には「後方へ」のけぞった映像の部分のコマが入れ替えられ、前方へ倒れたように見えるよう手が入れられていた。後にFBIはフィルムを改変したことを認めた。また、車が看板へ差し掛かる部分の6コマを抜き取った。看板の映像に黒い大きなシミが映っているが、これがフィルムを繋げた接着剤の後である。改変が加えられていないフィルムからはこの黒いシミは見当たらない。

暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーンの無線は「送信」状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダーに記録された。このテープはナショナル・アーカイブに保管されている。。2発目と3発目の銃声の間隔は1.6秒であり、凶器とされるカルカノ・ライフルでは速さを重視しても不可能な速度である。

[編集] オズワルドの逮捕と射殺

リー・ハーヴェイ・オズワルドは、警官J・D・ティピットを殺害容疑でケネディ暗殺の80分後に現場近くの劇場で逮捕され、その夜遅くケネディ暗殺容疑で再逮捕された。暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。なお、この時の模様はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万人のアメリカ人が生中継でこの瞬間を見ることになった。

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会はおろかマスコミでさえその不可解さを取り上げることはなかった。しかも、この事件とも何の関係もない、しかも警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入り込めたのかという理由について、ウォーレン委員会はダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、その理由については最終的に満足な説明は何一つ為されなかった。

また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を随時追いかけていたことが複数の人物から証言された。なお、ルビーはこの事件について多くを語らないまま4年後にがんにより獄中で死亡した。

[編集] ケネディの死亡宣告

ケネディを担当したパークランド病院第一外傷室の係員は、ケネディが「瀕死」状態だったと語った。これは病院到着時既に生存の可能性がなかったことを意味する。午後1:00に心拍が停止し、立ち会った司祭が終油の秘跡を与えた後に大統領の死亡が宣告された。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。ケネディの終油の秘蹟を行った司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたとニューヨーク・タイムズに語った。司祭はひたいに油を塗るために顔にかけられたカバーを開けなければならなかった。ケネディの死亡は午後1:38に公式発表された。コナリー知事は緊急外科に運び込まれ、その日の内に二度の手術が行われた。

午後2:00数分過ぎ、10~15分の武装したシークレット・サービスとのいざこざの後、ケネディの遺体はパークランド病院からエアフォース・ワンに搬送された。遺体はテキサス州法下のダラス検死官による検死(殺人は州犯罪で、テキサス州法管轄下で生じた)が行われる前に病院から搬出された。

副大統領リンドン・B・ジョンソンはケネディの二台後ろの自動車に乗っていたが、大統領の死に際し自動的にアメリカ合衆国大統領に昇格した。ジョンソンはラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンの機内で離陸前に就任宣誓を行った。エアフォース・ワンがワシントンD.C.郊外に着陸した後、ケネディの遺体は検死のためにベテスダ海軍病院に搬送された。検死は3人の軍医によって行なわれ、30人以上の軍人が目撃した。二人のFBI捜査官が、ケネディは右側頭部に大きな傷を受け、別の傷はスーツのエリの部分から5.5インチ下、背骨の右部分にあり、三番目の傷は彼の喉仏の下の部分にあったことを明らかにした。数枚の写真及びレントゲン写真が検死のために撮影された(それらの数枚は公式記録から消えた)。

[編集] 検死写真

検死写真は以下のURLで参照できる。グロテスクな描写が含まれているので注意していただきたい。遺体の写真及び頭蓋のレントゲン写真、パークランド病院での目撃者によるスケッチ。

[編集] 暗殺への反応

銃撃後の最初の時間、ケネディの死が公表されるまでは大きな混乱と恐怖が巻き起こった。冷戦下の時代でもあり、銃撃がアメリカ合衆国に対する大規模な攻撃の一部なのか、副大統領ジョンソンは無事なのかはっきりしなかった。ワシントンD.C.では、午後1:43 EST(ダラス時間12:43)に電話網に過負荷がかかり通信状態は59分間散発的になった。多くの通話がニューヨークの電話交換手に回され結局拒絶された。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。

ケネディ暗殺のニュースは世界中に衝撃を与えた(ヨーロッパにも波及した。小説『オデッサ・ファイル』の冒頭でも描写されている)。ニューヨークを始めとして世界中で多くの男女が公然と泣き、多くの人々がテレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。アメリカ合衆国からカナダまでの学校は学生を下校させた。「テキサス州およびテキサス人」に対する激怒が何人かの個人から報告された。 暗殺直後、ソ連が「我々が手を下したのではない」と国際表明を行っていることからみても、その衝撃は大きなものであった。日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間のテレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた。

ベテスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体は埋葬の準備がなされ、ホワイトハウスに移送され東の部屋に24時間安置された。翌日ケネディの国旗に覆われたマホガニーの棺は国会議事堂に運ばれた。昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。彼らの敬意をケネディの遺体に示すために幾人かは10時間の間凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。

ケネディの追悼式は直ちに組織され世界的に行われた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国的に喪に服す日とすることを宣言した。葬儀にはソ連を含む92か国の220人の高官が参加した。追悼式の後に棺は埋葬のためにケーソンに載せられアーリントン国立墓地に運ばれた。

ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時~8時(JST)に放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5%の視聴率を記録した。

[編集] 暗殺の背景

暗殺の理由と暗殺者は多くの説があり、いまだに結論が得られていない。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるためである。例えば、暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺された。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。

これらの不可解な状況が相次いだことにより、「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」、「サム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説」、「フルシチョフの命を受けたKGB主犯説」、「フィデル・カストロ主犯説」、「ピッグス湾事件の失敗を恨む亡命キューバ人主犯説」、「解任されたことを根に持った元CIA長官のアレン・ダレス主犯説」、「FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァー主犯説」、さらには「大統領の座を狙ったジョンソン主犯説」から「大統領選挙で負けたニクソン主犯説」など、今日までに多くの仮説が提示されている。全体的にはCIA、FBIを実行部隊にした政府内部の犯行であるとする説が多い。 また、ベトナム戦争から撤退した場合の戦争需要激減を恐れた軍産複合体と、ケネディの下で働くことがプライドとして我慢できなかったとされるジョンソン、後にウォーターゲート事件を起こすニクソン、FBI、CIAが関係して実行したという、批判勢力連帯説も有力である。

有力な一説である「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」によると、ケネディの急進的なベトナム戦争撤退計画が軍産複合体の利益を損ねると恐れた政府の中の一部勢力が大統領の警備を弱体化して犯行に及んだとしている。

[編集] 政府側の調査

二つの公式調査が、ディーレイ・プラザのテキサス教科書倉庫従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドが暗殺者だったとし、一つの政府調査がオズワルドが単独で行動したと結論を下し、別の調査はオズワルドには少なくとも一人の協力者がいたと結論を下した。

教科書ビルで犯行に使用されたダンボールには、オズワルドとマルコム・ウォレスの2人の指紋があったとされる。

[編集] ダラス警察

オズワルドを逮捕し現場で物的証拠を収集した後、ダラス警察署長ジェシー・カレーは彼の言う「ワシントンの人々」へ物的証拠を全て送るよう午後10:30に命じた。しかしながらオズワルドはFBIの本部に送られることとなった。

[編集] FBIの調査

FBIは公式調査を終えた最初の機関だった。暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。FBIは三発だけが暗殺時に発射されたと報告した。第一射はケネディ大統領に命中し、第二射がコナリー知事に命中、第三射が大統領の頭部に命中し彼を殺害した。三発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。

[編集] ウォーレン委員会

暗殺事件の最初の公式調査委員会は、事件の一週間後1963年11月29日にリンドン・B・ジョンソン大統領によって招集された。その委員会は、最高裁長官アール・ウォーレンによって率いられ、ウォーレン委員会の名称で知られるようになった。

10か月の調査後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリーと呼ばれる。

委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射され、その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した。

委員会の判断:

  • 一発は車列から外れたと考えられる。(三発の内の何射目かは特定できない。)
  • ケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くに貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。
  • 最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。
ウォーレン委員会の報告による致命傷を与えた銃弾の方向(魔法の銃弾)

委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目した。また、ライフル銃は近くに隠されたことが判明した。委員会はケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。弾丸は形状を保ったまま[1]コナリーの左腿から発見された。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。いくつかの弾道の証拠は弾丸がそのような軌道を描くことが可能であると示唆したが、多くの主張がこの点で一致しない。魔法の銃弾は1発の弾丸がそのような多くの銃痕を残すのは不可能であることを揶揄的に表現したものである。

委員会はさらにセキュリティ面の不備を指摘した。指摘は大統領が旅行する際のセキュリティ増加に帰着した。

コナリーの背中の銃創は胸の銃創よりもサイズが大きく、後ろからの銃撃によるものではなく、前方からの銃撃による貫通傷である可能性がある。

[編集] 政府側の調査と事後対応の主要な問題点

  • オズワルドは「射撃の名手」とされるが海兵隊時代の彼の記録からはとてもそうとは思えない。
  • ザプルータフィルムによると、前方からの銃撃によって大統領は頭に致命傷を負っているように見える。これは後方にいたオズワルドの単独犯行説(政府見解)では説明できない。また、脳の一部が後方に飛んでいるのが詳しく見ると分かる。なので前方からの射撃と考えられる。
  • オズワルドからは硝煙反応が出なかった。それどころか凶器とされたライフルからは当初指紋が発見されなかったのに、一週間後突然発見された。
  • 暗殺直後オズワルドは逃げもせずビル内の食堂でコーラを飲んでくつろぐなどした。狙撃地点とされる部屋から食堂へ向かう階段には女性が2人いたが、その女性はオズワルドは通っていないと証言した。食堂のオズワルドを警官が1度やり過ごしている。
  • 教科書ビルから撃たれたとした警官が包囲に10分もかかったのに対し、その後オズワルドを逮捕するまでの経緯は不自然なまでに鮮やかだった。
  • オズワルドが狙撃したとされる教科書ビルの窓からでは常緑樹が茂っており、木の葉が邪魔して狙いにくい。更に、政府側報告(ウォーレン委員会)では5秒程度で3発発射しているとされるが、オズワルドが使用したボルトアクション方式カルカノ銃では5秒程度の間に3発発射し2発を命中させるのは至難の業である。また、通常は1発目、2発目、3発目と順を追うごとに照準に狂いが生じるものだが、致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされている。後に専門家が実施した実験でも成功した試しは一度も無い。それどころか正確に狙いを定めても銃弾は大きく目標からそれる結果となった。
  • (大統領頭部への1銃弾を考慮すると、)大統領とその同乗者の他の被弾箇所(約5箇所)が政府見解である1発の銃弾では説明がほぼ不可能である(魔法の銃弾)。
  • オズワルドがダラス警察署内で殺害されるという異常な事態が起きている(通常警察署内に武器は持ち込めない)。
  • 証拠物件の公開が政府によって、2029年(下院暗殺調査委員会)もしくは2039年まで不自然にも制限されている。

以上のことなどから、現在、少なからぬアメリカ市民がなんらかの政府の関与した陰謀説を支持している。

[編集] その他の問題点

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています
  • 事件当日、ダラス市長の指示で急にパレードのコースが変更された。慣例からすれば歴代大統領は直線コースをパレードしていたが、ケネディはわざわざ車の速度を落とさなければならないかのように迂回ルートを走らされ、そこで銃撃された。このときのダラス市長アール・カベルはピッグス湾事件で更迭されたCIA副長官チャールズ・カベルの弟であった。
  • 本来なら大統領の近辺にいなければならないシークレットサービスが後ろへ退くように命令された。
  • 緊急時速度を上げるところ速度を落としていた。
  • 遺体が一度盗まれた。
  • 傷口が右前頭部に刃物によって加えられていた。
  • 検死の医者は弾丸の検死の専門ではなかった。
  • 証拠の弾丸が明らかに本物ではない。通常骨などに当たれば変形するはずだが無傷であった(7.35mm×51弾が実際に使われたかも不明)。

資料はアメリカ公文書図書館に保管されているが公開されるのは2039年とされている。しかし、現在でも資料の多くが紛失しているため、2039年に公開されても完全に真実が明らかになるかどうかは未知数である。

[編集] 銃撃の順序

[編集] 目撃者

暗殺を現場で目撃し、記録した者は、ザプルーダー1人ではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーレイ・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている。[2] 写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーレイ・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。また、バッジマンと呼ばれる、暗殺犯とその発砲の瞬間を撮影したのではないかとされる写真も存在する。

[編集] 未公表のドキュメント

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  • 暗殺の瞬間をザプルーダーよりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がおり、研究家により、バブーシュカ・レディーと呼ばれている。他のフィルムや写真には、彼女がフィルム撮影をしている姿がはっきりと映っている。
  • 暗殺当日に撮影されたそれまで未公開だったカラーフィルムが、テキサス市のSixth Floor Museumによって新たに2007年2月20日に公開された。フィルムは実際の暗殺の90秒ほど前に、現場から数ブロック離れた地点で撮影されたものである。

[編集] 関連文献

[編集] ケネディ大統領暗殺事件を扱った映画

[編集] 脚注

  1. ^ 水中に向かって撃つような事をしない限り、通常弾頭は必ず変形する。
  2. ^ いわゆる"バブーシュカ・レディー"とは別人。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク