笠間市は、茨城県の中央部よりちょっと北のあたり。
県庁のある水戸市から国道50号で南西へ20kmほどいったところにある、
小さな芸術のまちです。
東に佐白山、西に筑波山を望む小高い丘に囲まれた笠間はのどかな田園都市で、
丘はほとんど
花崗岩
からなり、それが長年にわたって風化され、分解され、堆積されて、
やきものの原料になっています。
このまちには陶芸家や石匠などが多く住み、日々斬新なアイディアで
新しい芸術を生み出しています。
笠間焼は特徴がないことが特徴と言われて久しい。
この言葉は、元来の笠間焼には民陶固有の『独自的な個性』
あるいは『強烈な主張』がなく、産地のカラーが薄いという
含みを持っていた。
歴史を見ても、『日用品』を主とし、関東一円に卸していたという
背景があり、芸術面よりも実用面が重視されたのではなかろうか。
笠間の土は粒子が細かく、粘りがあって、焼き上がりの収縮率が高い。
出来上がったものは硬く、雑器として理想的な丈夫さが、笠間の評判を
支えた。
さて昨今、『特徴がないのが特徴』というこの言葉には、別の意味へと
変化を遂げた。
現在、笠間の窯元は200程度。その9割が、作陶作家として
伝統にとらわれない自由な作陶活動をしている人達だ。
笠間には、全国各地からユニークな発想をもった人々が集まってくる。
まさに十人十色で、たとえば芸術の森公園で5月の連休に行われる
陶炎祭(ひまつり)会場は、全国の陶器を一堂に集めたような
品揃えである。
もはや笠間焼の特徴は、『特徴がありすぎるのが特長』といえる。
民芸の
陶器
といえば、益子の名を知らない人はいないくらいだが、
笠間は稲荷神社が有名で、やきものについては益子より歴史が古く、
かつては関東一円に販路を持っていたほどであった。
明治24年の資料を見ると、笠間の主な製品は、酒壺、蕎麦徳利、すり鉢、
水鉢、植木鉢、甕類、土瓶、火鉢、
行平、
湯たんぽ、はては便器まであり、これらを関東、東北の1都16県に
出荷していたのである。
このころの年間生産額は15万円、当時の米の価格を基準に換算すると、
少なく見積もっても現在の価格で13億円相当の売り上げが
あったことになる。紛れもない一大産地だったといえる。
歴史をさかのぼると、佐白山に開基された
正福寺【白雉4年(A.D.653)〜元久2年(A.D.1205)】や、
笠間城【元久2年(A.D.1205)〜明治4年(A.D.1871)】で、
笠間の土を用いた祭祀用具、燭台、皿、壺などが使われていたが、
これらはいわゆる
土器、
須恵器で、
釉
を使ったやきものは、安永年間(1772〜81)、笠間箱田村の名主、
久野半右衛門が登り窯を築き、徳利や茶壷を焼いたのが
始まりとされている。
当時の笠間は凶作に見舞われ、新しい産業を模索していた。
そんな折、益子に通じる仏ノ山峠の手前で行き暮れてしまった信楽の陶工、
長右衛門が箱田の名主の屋敷に立ち寄った。名主はこれ幸いと彼から陶技を
学んだ。天明年間(1781〜89)には、その名主の婿養子瀬兵衛が、信楽から
陶工吉三郎を連れてくる。
寛政年間には、自らも作陶し『お庭焼』と名付けたやきもの好きの藩主牧野貞義
の奨励を受け、日用雑器を焼く窯が領内のあちこちに誕生した。
もとはそれぞれの窯のある村の名を取り、“箱田焼”“宍戸焼”などと
呼んでいたものが、明治以降窯業を盛んにした田中友三郎により“笠間焼”と
命名された。
《語句注釈》
陶器『とうき』
行平『ゆきひら』
花崗岩『かこうがん』
土器『どき』
須恵器『すえき』
釉『うわぐすり』
《参考文献》
津村節子著 『土と炎の里』(中央公論社)
JTBキャンブックス『[東日本]やきものの旅 〜訪ねてみたい20の窯里』(日本交通公社)
『日本のやきもの 〜伝統の窯元をたずねて 【東日本編】』(NHK出版)
岩竹良一著 『陶磁器の作り方 〜土練りから上絵つけまで』(金園社)
国語大辞典(新装版)小学館 1988
最終更新日: 平成12年 9月15日