益子焼わら灰による白濁釉、銅呈色による緑釉、鉄呈色による褐釉をかけた甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・土瓶など日用民具を焼いていたが、現在では和食器・飾皿・花瓶など創作性の強い製品をつくっています。
笠間焼は、近江の信楽焼の陶器技術を入れて始められたもので、益子焼(栃木県)の祖と称されています。 |
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益子焼
ましこやき
益子焼は栃木県芳賀郡益子町にある陶器窯。江戸時代末期,1853年(嘉永6)に茨城県の笠間から益子の大塚平兵衛方に婿養子になってきた啓三郎によって開かれたといわれる。また土地の菊池清蔵を開祖とする説もある。黒羽藩の指定窯とされ,明治になって民営に移ったが,益子焼の名をたかめたのは,1924年に民芸運動の中心的役割を果たした陶芸家,浜田庄司が定住して仕事をはじめたことによる。
本来の益子焼は、わら灰による白濁釉,銅呈色による緑釉,鉄呈色による褐釉をかけた甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・土瓶など日用民具を焼いて,それほど特色はなかったが,現在では食器,飾皿,花瓶など創作性の強い製品をつくっている。
益子は、栃木県南東部,芳賀郡の町。人口2万5255(1995)。真岡市の東にあり,南は履城県と接する。益子町域の大部分は八溝(やみぞ)山地の丘陵で,益子西部を小貝川が南流し,流域に水田が広がる。中心集落の益子には,中世,益子氏の城があり,同氏の没落後,家臣団が土着した。幕末に常陸の笠間から伝えられた益子焼は,黒羽藩の保護奨励によって発展した。益子焼の窯元は市街地東部の城内や道祖土(さやと)の丘陵地を中心に分布し,販売店や益子町陶磁器組合,県立窯業指導所などもここに集中する。浜田庄司が収集した陶磁器などを展示する益子参考館があり,春秋の陶器市を中心に観光客が多い。カメラ,時計の誘致工場があり,生産額では精密機械工業が最も多い。農業では葉タバコの生産が盛んであったが,近年は減少している。史跡・文化財が多く,円通寺表門,西明寺楼門・三重塔,綱神社本殿,大倉神社本殿などはいずれも重要文化財となっている。真岡鉄道線,国道123号線が通じる。
笠間焼
かさまやき
履城県中西部にある市。1955年笠間町が大池田,北山内,南山内の3村と合体,市制。人口3万0337(1995)。西縁を八溝山地で境され,栃木県に隣接する。市域では丘陵状の地形がめだち,市街も涸沼(ひぬま)川上流の盆地状低地に開ける。13〜16世紀には市街東方の佐白山頂に城を構えた笠間氏が支配,江戸時代に入って笠間藩主牧野氏の治政下に城下町が完成,笠間稲荷神社の鳥居前町も成立した。加えて水戸〜結城〜小山を結ぶ街道(現,国道50号線)の宿場町であった。伝統産業として笠間藩の保護・育成をうけた笠間焼は,近江の信楽(しがらき)焼の技術を入れて始められたもので,水がめ,すり鉢を主とし,益子焼(栃木県)の祖と称される。明治中期,鉄道(現,JR 水戸線)開通に伴い,市域西部から花コウ岩の採掘が始まり,質の良い白色の稲田御影石として東京市場で重用され,ビル建設,市街軌道敷石となった。近年は墓石の需要が多い。 中川 浩一
[笠間城下] 江戸時代の笠間は譜代大名の城下町であり,佐白山の城郭を中心に,それをとりかこむ田町,大和田に侍屋敷が配置されていた。町屋は大手前の街道筋に立ち並び,その外側に足軽や小役人屋敷があった。城主は1747年(延享4)に8万石の大名牧野氏が入部するまで,3万〜4万石クラスの譜代大名であった。城郭は1205年(元久2)に笠間氏によって築かれたといわれるが,町並みは天正・文禄年間(1573‐96)以後に整えられた。笠間は磐城などの遠隔地を除いた履城郡西部の藩領の中心で農村との結びつきが強かった。1705年(宝永2)の469戸の住民のうち,商工業は領内農村の年貢米,小作米を加工する酒造業などが中心で,また領内農村から城下町に流入して日雇稼ぎとなって生活している者も多くみられた。領内農村と結びついた小城下町といった性格から,近世後期になって関東地方一円に広い信者をもつ笠間稲荷の所在地とか,領内陶業が笠間焼として喧伝されると笠間の名は広く知られるようになった。明治維新後は西履城郡の行政の中心として,あるいは鳥居前町としての笠間に性格を変えていった。
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益子やオリジナル野点セット【野点揃】はこちらから |
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野点
野点(のだて)とは野外で茶をたてること。また、その茶の湯。
屋外に点茶の場所を設定して,茶(薄茶)を供することを野点という。
この様式についての記述は《南方(なんぼう)録》が最も詳細で,〈野ガケ(掛)〉また〈フス(燻)ベ茶ノ湯〉と表記し〈野駆〉〈狩場〉での茶会の意としている。
同書〈滅後〉の巻に,天正15年(1587)6月に九州征伐のおり博多(箱崎)に駐留した豊臣秀吉に,海浜の松原で千利休が松葉をかきよせ,これを燻(ふす)べて湯を沸かし茶を点(た)てたとあり,さらに同書には九州大善寺山,京都糺森(ただすのもり)での事例が掲げられている。
箱崎松原での利休の働きは秀吉の大いに嘉賞するところとなり,山岡宗無(茶匠住吉屋宗無。1534‐1603),津田宗及にも〈フスベ茶ノ湯〉を出すことを求めたという。しかし利休は,定法のない野掛は〈定法ナキガユヘニ定法大法アリ〉とし,周囲の景観に目を奪われるため,秘蔵の茶器を出すことをよしとして,安易な野遊びになることを戒めた。
この箱崎での着想は,その年10月1日の北野大茶湯(きたのおおちやのゆ)にも引き継がれ,1590年の秀吉の小田原遠征に利休が携行した桐人笥(旅人笥)も野点(この場合,芝点(しばだて)とも称する)に使用されたと思われる。いずれにしても利休は,野点に厳しい要求をもっていたが,やがて西鶴の《男色大鑑》に〈野掛振舞〉の用例がみられるように,貞享(1684‐88)ころになると,野遊びに飲食物を携え,喫茶もその中に取り込まれるなど,野点の内容が軽装化されたといえよう。今日においても季節や場所の選択に趣向をこらし,屋外での点茶として行われている。
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
野点揃/NODATE-Soroe<野点セット>
野点伝統の定法を大事にするとともに、今日のアウトドアでの使用やリビングでの茶の湯にも対応する、益子や オリジナル茶道具一式を揃えました。
伝統の優美さ。 わびさびの風情。 作陶家と熟練職人による入念なつくり。
野点に必要な道具をコンパクトにパッケージング。
携帯性と衝撃保護。 ロハス(LOHAS)・もったいないライフスタイルをサポート。
でき得る限りの修理対応をさせていただきます。
野点茶碗 《くわしくは別紙 野点茶碗カタログをご覧ください》 野点茶碗カタログの中から、お好みのひとつを選択となります。
野点揃「襴」/NODATE-Soroe 《ran》 <自然の中にありながらも雅な趣> 二種類の金襴・組紐を贅沢に使用。
利休袋を現代的にアレンジ。和装からカジュアルまで幅広くお使いになれます。
細工やデザインを凝らしたオリジナルバッグRIKYU-bag「襴」に、茶道具一式を揃えました。
野点揃「帆」/NODATE-Soroe 《han》 <自然の中で味わう「わび・さび」> 丈夫な防水帆布二枚取り。
ザックなどに収納しやすい角型形状。カジュアルからアウトドアまでお使いになれます。 持ち手に金襴をあしらい、凝ったディテールをあわせ持つオリジナルバッグRIKYU-bag 「帆」に、茶道具一式を揃えました。
アウトドアに対応する和のバッグ
【RIKYU-bag】 - Original DESIGN -
【RIKYU-bag 「襴」】 " 二種類の京都西陣の金襴生地と、組紐を使用。
" 伝統的な利休袋と機能性を融合させたデザイン、色柄。 " 複層構造により茶碗や茶道具への衝撃を吸収。 " 内側にもこだわったつくり、きめ細かい細工。熟練職人による入念な仕立て。 " Made in JAPAN
【RIKYU-bag 「帆」】 " 綿100%、パラフィン防水加工帆布生地を使用。
" 自然環境に馴染む色と風合。使いやすいデザイン。 " 金襴生地を控えめにあしらうことで茶道具らしさを。 " 帆布二枚取りによる丈夫なつくり※2、熟練職人による入念な仕立て。※2:一部に一枚取りの部分があります。 " Made in JAPAN
統一デザイン茶碗袋、琉球畳コースター - Original DESIGN - " RIKYU-bag・茶碗袋・畳コースターは、同じデザインの金襴生地を使用し、こだわりのディテールをお楽しみいただけます。
" 畳表は、琉球畳を使用し、味わい深い風合と耐久性を追及しました。 " Made in JAPAN 高山薄茶道具 " 国産竹による茶筌、茶杓、根付を、コンパクトにパッケージ。 " 奈良県高山伝統工芸士制作。 " Made in JAPAN
実用的な小棗と茶巾 " 小棗はアウトドアで使いやすい樹脂製。抹茶がこぼれにくいように、密閉性の高い中蓋付き。石川県山中漆器製(現.加賀市)。
" 茶巾は実用的な綿と麻の織物。 " Made in JAPAN 贈り物として・保管にもロゴ入り専用桐箱 " 「襴」・「帆」専用の益子やロゴ入り桐箱つき。
心のこもった贈り物としても好適です。
" 温度・湿度調節効果が望める桐箱収納は、防カビ・防虫にも適しています(効果は絶対的なものではありません)。 " Made in JAPAN
ロハス(LOHAS※3)をサポート 世界に誇るライフスタイルもったいない(MOTTAINAI)。 大切にご使用になられている野点茶碗、RIKYU-bag 「襴」と「帆」、茶碗袋が破損した場合は、修理※4をさせていただきます。
※3.Lifestyles Of Health And Sustainability:健康的な生活と同時に、地球環境や自然保護に気をつかう、持続的なライフスタイルの総称です。
茶碗の詳細は別紙「野点茶碗カタログ」をご覧ください。
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→石岡信之
アイボリーアロマポット・茶香炉はこちらから |
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→大塚雅淑
鉄糠釉アロマポット・茶香炉はこちらから |
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→大塚雅淑
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→向山さんの作陶の様子はこちらです。
→向山文也作品はこちらです。 |
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→ユアンクレイグ作品はこちらです。 |
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| 益子焼若手陶芸家 南雲英則さん 土と釉薬を手作りするようすはこちらから |
→神谷正一
端正なうつわをこちらからご覧ください。 |
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益子焼陶器キャラクター作品の数々、時事ネタを織り込んだ楽しく笑えるネコちゃん・ワンちゃん
そして、ブタくん。皆さんひとりひとりの個性が光ります。 |
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【陶器】
青灰色の,堅く焼きしまった土器。中国灰陶の系譜をひき,直接には朝鮮伽謂(かや)地方(加羅)の陶質土器の系統に属する。5世紀中ごろ(古墳時代中期)前後に,伽謂地方から陶工集団が渡来して生産を開始した。大阪陶邑(すえむら)窯に始まり(陶邑古窯址群)(図),生産地はやがて東海,四国,九州などの各地へ拡散していく。奈良〜平安時代には〈陶器〉と表したが,釉薬をかけた陶器との混乱をさけ,考古学では須恵器と書き,〈すえのうつわ〉ともいう。
須恵器の成形法は,粘土紐積上げが基本である。器形の大小にかかわらず,まず粘土紐を積み上げて原型をつくり,その後,叩きや削りの技法を用いて形態を整え,仕上げの段階にいたって轆轤(ろくろ)を用い,調整する。轆轤の水びき技法が採用されるのは,中世末の磁器生産開始の際であり,須恵器,灰釉・緑釉陶器,中世陶器は,いずれも粘土紐積上げの成形法を基本とし,轆轤の使用は成形の最終段階である仕上げの段階に限られていた。
須恵器は,窯を用いて焼成した日本最初のやきものである。縄文・弥生土器,土師器(はじき)などの酸化炎焼成による赤焼きの土器に対して,須恵器は窯内で還元炎焼成された。須恵器の窯は,焚口から煙出しまで原則としてひとつながりのトンネル状を呈し,一般に窖窯(あながま)とよぶ。全長8〜10m,床(最大)幅2〜3m,天井(垂直)高1.5m前後の大きさを標準とし,時代や地方によって若干の差異がある。床面傾斜については,ほぼ水平のものから40度前後の急傾斜のものまでさまざまだが,構造上の基本は同じであり,床面傾斜角をもって登り窯,平窯などとよびわけた過去の用語は避けたい。江戸時代から明治にかけて,須恵器は行基(ぎようき)焼,祝部(いわいべ)土器などとよばれ一部の文人,茶人間で関心をよんだが,学術研究の対象として取り上げるようになったのは大正以後である。器形,用途論に始まった研究も,近年は年代や生産流通などの問題に対する考古学的研究の資料として,本格的な取組みがなされるようになった。
須恵器はその用途から,貯蔵,供膳(きようぜん),調理などの日用品と,葬祭供献用との二つに大別できる。器形は,壺,瓶,甕,鉢,杯(つき)(坏),高杯(たかつき),盤・皿などの種類があり,形態の大小や口頸部の変化などに対応してさらに細分されている。古墳時代の須恵器は,器形の大半が葬祭供献用に属し,飛鳥・奈良・平安時代には日用品が大多数を占めるようになる。
大阪陶邑窯を中心に始まった須恵器生産は,数十年の間に東は東北の一部から西は北九州に及ぶ各地へ波及したが,初期の須恵器は器形の組合せや個々の器形の形態に伽謂地方の陶質土器と共通する点が多い。また,伍形壺や耳付四足盤など朝鮮陶質土器には認められるが,その後の須恵器にはみられない特殊な器形があり,陶邑窯と朝鮮陶質土器との密接な関係がわかる。生産地が拡散し,各地で須恵器生産が行われるようになった頃,器形の種類,組合せ,形態などが定型化し,以後日本の陶質土器として変遷を遂げていく。この須恵器の定型化する時期は,ほぼ5世紀末ごろとみられる。
6世紀を迎える頃,各地に群集墳が出現する。群集墳の形成,盛行に伴い,副葬品としての須恵器に対する需要は増大し,生産地の増加や量産の傾向が強まる。生産工程のなかで,極力仕上げの技法を省略するため,全般に製品は粗略となる。また,高杯の脚部や樹(はそう)の口頸部が発達し,葬祭供献用としての装飾的な傾向が著しくなる。群集墳盛期の樹は,口頸部が異常に長大化し,逆に体部は極端に小型化して,容器としての機能をまったく失い,供献用の仮器としての役目を果たすにすぎなくなる。さらにこの頃,装飾付脚付壺など供献用の大型器形も盛んに生産されるようになる。
飛鳥時代に入ると,新たな政治体制の下で宮廷儀礼の形式が定着し,やがてそれは地方へ波及し,さらには官僚貴族の生活にまで浸透していくが,須恵器もそれに伴って大きな変化を遂げる。器形の種類は盤・皿類,瓶などの供膳用が主体となり,古墳副葬用として盛行した高杯や樹は急減あるいは消滅する。このほか,仏教に関連した鉄鉢形の器形や浄瓶,水瓶,それに陶硯などが現れるのも,新しい時代の到来を反映している。奈良時代には,地方官衙の整備や国分寺の造営などに伴い,須恵器生産地はさらに増加し,旧一国に1〜2ヵ所の生産地が現れる。
しかし奈良時代の末期には灰釉・緑釉陶器の生産が始まり,その後中国からの輸入陶磁器も徐々に増加する動向の中で,須恵器生産はようやく衰退のきざしを見せる。平安時代に入って,灰釉・緑釉陶器の供給が盛んな畿内中枢部では,須恵器の器形は甕,瓶子などに限られるようになり,各種供膳用の器形は灰釉・緑釉陶器に代る。平安後期に入ると,輸入陶磁器が爆発的に増え,須恵器生産はまったく衰微していく。一方,各地方の須恵器生産は,平安時代に入ってもなお盛んであったが,やがて東北地方の須恵系土器や東海地方の山茶碗(やまちやわん)など,特色ある陶質土器の出現によって衰退する。須恵器の系譜をひくやきものは,中世まで生産されるが,岡山の亀山焼や能登の珠洲(すず)焼などはその類に属する。⇒瓷器(しき)‖新羅土器
【和食器】
食事に用いる器具。狭義では,椀,茶碗,皿,鉢,杯,グラスなど,特に食卓で使う飲食用器と,神,スプーン,ナイフ,フォークなど飲食用具をさす。広義では,これに加え鍋,釜,すり鉢,包丁などの調理用器具,保存用器具,食膳,盆,重箱なども含む。ここでは狭義の和食器のみをとりあげる。
飲食用の器具には,食事を共にする何人かが共同で使う共用器と,各自が使う銘々器とが区別できる。日本の現代の和食器でいえば,湯飲み用の土瓶,煮ものなどを盛りつけた大鉢,サラダの大皿などが共用器,飯茶碗,汁椀,小皿,湯飲み茶碗,神などが銘々器である。現在では,欧米,中国,朝鮮半島ほか世界各地の食事で共用器,銘々器が併用されている。しかしアフリカ,西アジアの牧畜民,農耕民のあいだでは共用器のみを用い,銘々器を使わない食事が広くみとめられる。日本の縄文人をはじめ,世界の先史時代の食料採集民の古い段階の土器には,本来,共用器も銘々器も存在しないらしい。新しい段階(後・晩期)の縄文土器,海外では先史時代の農民の土器には共用器が存在する公算も大きい。ヨーロッパでは,ローマ時代の赤色土器(テラ・シギラータ)に共用器,銘々器がともに存在する。しかし中世に入ると銘々器は姿を消しており,その後半になってようやく再現した。16世紀後半,フランスのモンテーニュは南ドイツに旅して,めいめいが杯をもって飲むさまに一驚と書き残している。〈最後の晩餐〉をテーマとする絵画のうち,古いものには共用器のみで銘々器を欠くもの,パンを銘々皿として代用しているものが多い。中国ではおそくも漢代に共用器と銘々器を併用し始め,朝鮮半島ではおそくも三国時代以来,両者を用いている。日本では弥生時代末ころの高杯(坏)(たかつき)や鉢が銘々器の可能性があり,《魏志倭人伝》の諏豆(へんとう)(高杯)を食事に用いた,という記事との関連も興味深い。須恵器出現(5世紀)後,土師器をも含め坏,皿など銘々器は全国的に普及した。
世界の食器を通観して日本の和食器に特徴的なのは,銘々器に誰々のもの,と所属が決まっているものがある事実である。銘々器は各自が使うものであるから,飲食が始まると終るまで他人は使わず,〈一時的な属人性〉が認められる。しかし,形,文様や記入した名前などによって他と区別可能な器を特定の人が使うことが認められていることもある。この〈恒常的な属人性〉がみとめられている銘々器を属人器とよんでおく。日本では,飯茶碗,神,湯飲み茶碗が属人器であることが多く,朝鮮半島では,飯碗,汁碗,神,匙が属人器にぞくしている。中国および欧米には属人器はない。ヨーロッパではナプキンおよびナプキンリングに恒常的属人性を認めているところがある。このほか,スリランカでは飯皿,台湾南東方の蘭嶼ではトビウオ料理をのせる木皿,モンゴルでは携帯する鉢,ナイフが属人器である。朝鮮半島における属人器は,飲食にあたって飯や汁を配る順序のめやすに有効という。日本の属人器もその役割を果たしてきた。西日本および朝鮮半島においては,葬式の出棺に際して戸口のところで飯碗を割る儀礼がある。属人器をもつ社会にのみ通用する儀礼といえよう。奈良平城宮の土器には,他人の使用を禁じる墨書をもつものがあり,属人性の主張をしめすものとして興味ぶかい。ローマ時代の軍団駐留地の銘々器にも名や記号を刻んだものがある。いずれも集団生活が営まれる場所で和食器の混同を嫌った所産である。16世紀の近畿地方の漆器の椀には名前らしい文字を記したものがあり,また当時の飯用木椀が属人器だったことを示す記録もある。しかし,属人器の存在が顕著になる動機のひとつになったのは,銘々膳(箱膳)から共用膳(食卓)への転換であった。また木椀から陶磁器の茶碗への転換も文様の種類の選択が可能になるなど,属人器の発達をうながす動機となったといえよう。→和食器は益子や
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