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陶芸に対する理解を深めていきたいと思い、現在、日本各地・各都道府県の陶芸の歴史と現状を連載しています。

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2008/11/05

tougei VOL:111

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   陶芸なんでもかんでも
                              稻葉 夢庵著             
             VOL:111

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 日本各地のやきものの歴史と現状、第35章 大阪府編―その5
  
 酒井広正‥和泉国(大阪府)の陶工ですが、酒井広正の名前は和泉国湊
焼にも京都音羽焼にも、その名前があるのですが、どうも年代的にみて差
異があるようで、はっきりしません。柴田久山‥摂津国(大阪府)の人で、
1871(明治4)年頃に大阪付近に窯を築いて、京都から陶工を招いて製品を
造り始めました。

 柴山監物‥摂津国(大阪府)の人で、安土桃山時代の武人です。初め俊
一と名乗っていましたが、宗綱と改名。通称を源内。石山本願寺に属して
いましたが、のち信長・秀吉に仕えました。利休に茶を学び、七哲の一人
として数えられています。雁取の楽焼茶碗、柴山形手水鉢は彼が愛用して
いた茶道具として有名です。

 清水寛造‥摂津国嶋上郡(大阪府三島郡島本町桜井)の桜井里焼の創始
者です。集山‥安永年間(1772〜81)に大坂に住んでいたシロウトの陶芸
作家で、花瓶のようなもの、床掛けなどを制作して、浪華集山の銘を付け
ていました。

 高原市左衛門‥一説によりますと、摂津国(大阪府)高原焼の創始者と
言われています。慶安年間(1648〜52)に大坂で開窯しましたが、二代・
平三郎が承応年間(1652〜5)に江戸へ下り浅草で陶器を造りましたが、の
ち帰阪した時、市左衛門が将軍家の招聘に応じて、平三郎に代わって江戸
に赴いたと言われています。

 辻玄哉(げんや)‥安土・桃山時代の茶匠で、武野紹鴎の一の弟子と言
われた人物で、屋号を墨屋といい和泉国(大阪府)堺の禁裏御用達の呉服
商でした。紹鴎について茶道を二十年もの間学び、「小壷の大事」を伝授
されたのですが、同じく利休の高弟・山上宗二は玄哉を酷評して、道具に
対しては目が利かず、茶の湯も下手で、不作意な人だと言っていたと伝え
られています。利休に所望されて台子の古法を授けています。千家ではこ
れを「墨屋伝授」と称して伝えています。名物道具としては鬼桶信楽水指
を所持していました。1576(天正4)年十一月十日没とされていますが、明
らかではありません。

 津田宗及‥和泉国(大阪府)堺の大商人「天王寺屋」津田宗達の長子で
すが生年月日は不明です。通称を助五郎、大徳寺の大林和尚から天信の道
号を授けられ、更幽斎と号し、受世法眼とも称したとも言われています。
茶人で、堺会合衆の職を継ぎ、早くから織田信長に近づき、1568(永禄11)
年に信長が堺に二万貫の矢銭(軍用金)を課した時には、仲介して堺の安
泰を保ちました。紹鴎流の茶を父・宗達に学び、今井宗久・千利休ととも
に信長・秀吉の茶頭となり、三千石を領したと言われています。

 天満屋茂兵衛‥大坂の瀬戸物商で、享保年間(1716〜36)に靱上通(西
区)に開業しました。その十一代の孫に当たる天満屋こと寺中平衛門も靱
上町に住まって陶業を継続しましたが、これが瀬戸物商の増加する発端と
なり、それまで北富田町と呼ばれていましたが、この時を機に瀬戸物町と
称するようになりました。

 納屋助左衛門‥和泉(大阪府)堺の商人で、通称を呂宋(ルソン)助左
衛門と言い、納屋衆の一人です。「納屋」は「菜屋」とも「魚屋」とも書
きます。1593(文禄2)年に呂宋(今のフィリピン)へ渡航して、翌年の七
月に帰国。代官の石田杢助を通じて豊臣秀吉に傘・蝋燭・生きた麝香(じ
ゃこう)獣を二匹献上し、真壷五十個をご覧にいれたところ、秀吉は大い
に喜んで利休に相談して、これを上中下の三段階に区分してそれぞれに値
段をつけて望みの者に分けたので、助左衛門は数日のうちに巨額の利益を
得ることが出来た、と言う話も遺されています。助左衛門はのちに秀吉の
機嫌を損ねて、カンボジアへ渡り日本渡航貿易商人の監督になったと言わ
れています。
註:お断りしておきますが、1594(文禄3)年に利休に相談して、と言うく
だりは、利休は1591(天正19)年に自害していますので、少し可笑しい話
と言えないことはありません。

 西川屋茂平‥大坂の商人で、1804(文化元)年の頃に美濃国多治見(岐
阜県多治見)に来て、奈良茶朝白と言う茶呑みを見せて、模造させました。
これがこの地の石焼の始まりと言われています。
註:奈良茶朝白と言う実際の「白」字は、白の下にカタカナのハの字がつ
いています。PCでは出てきませんので、一応、この字を使いましたが、バ
ク、ボウと発音し、正式には皃と書きます。貌(かお)と同じ字です。

 八田玄斎‥和泉国堺浦八田村(大阪府堺市八田)の焙烙(ほうろく)作
者で、天正年間(1573〜92)に豊臣秀吉から天下一の号を与えられた人で
す。

 晴海藤次郎‥大坂の茶道具の老舗・晴海調古庵の創設者です。1840(天
保11)年に生まれ江戸時代に有名だった道具商「道勝」の店舗を買い取り
「晴海商店」を起こし茶器・古美術を専業としました。また茶道に通じた
他、料理・俳諧の道にも明るい人でした。

 菱古山‥大阪府堺の吾妻通りに菱古山と号して中国風の陶器を造る人が
いました。窯は1856(安政3)年に安村浅次郎が創始したもので、何代か代
替わりした後、1883(明治16)年頃に大阪西区江戸堀に屋号を「菱屋」と
名乗る樋口平兵衛という陶商がいて、別号を「菱古」と言い、この人が菱
古の印を捺して中国風の陶器を造らせました。
 
 付録に移ります。前回に引き続き「大名物」のご紹介です。

 油屋肩衝…漢作肩衝茶入。大名物の中でも首位として位置づけされ、尊
重され、貴重されたもので、和泉国堺の町人・油屋常吉(浄言とも)とそ
の子・常裕(浄裕とも)の所持していたところから、この名前がつきまし
た。同じ種類の漢作肩衝茶入と比較すると、口径が少し小さめで、甑(こ
しき)廻りに輪筋が一本、そして腰のあたりに沈筋が一線あります。その
線の位置が少し下手にあるのは、口径が小さいこととともに、この茶入の
特徴と言われています。全体は柿金気色で、その上に黒飴釉の景色があり
ます。置形は肩下からむらむらとひろがった模様の腰紐が、下の方に一筋
のなだれとなって、盆付際で止まっています。この置形に向かって右手に
小さな火間があります。
註:火間とは、釉がちぢれて火色がさしていることを言います。
 総体の釉質は見事で、金気が多く、青、茶その他さまざまな色彩があり、
景色の全体に及んでいて、どの面から見ても美しく、裾以下は濃鼠色の土
を見せ、底は板起こしです。
 時代、作行、格好、釉質、景色のどれを取っても何一つ欠ける所は無く、
まして無傷で、持ち疲れの跡もありません。

 この文章の何号目かで松平不昧侯がこの肩衝茶入を自分の手中に収めた
後のことを書いた時、1585(天正13)年に行われた「北野大茶会」の時、
この肩衝茶入を、油屋常吉・常裕から献上させた、いや取り上げた豊臣秀
吉の手練手管・油屋親子の苦悩など、それとなく書いたように思います。
そして、秀吉が手にして以来の、この肩衝茶入の辿った運命も述べたよう
に思いますが、このような大名物ともなると、いろいろな数奇な運命をた
どるものが多く、付録として書き始めたこの「大名物」編も、そのような
運命をも含めて書いて行きたいと考えてのことです。…閑話休題…。

 荒木高麗…高麗茶碗。荒木摂津守村重が所持していたところから、この
名があります。見たところ安南茶碗のようにも思えるのですが、釉が柔ら
かく、ことに内部に井戸茶碗で見られるような白釉のなだれがあるのは高
麗茶碗の特色のようです。もとは利休が所持していたものが、荒木村重を
経て尾張の徳川家の所有となりました。

 安国寺肩衝…漢作肩衝茶入。もとは豊臣秀吉が所有し「有明肩衝」と呼
ばれていましたが、細川三斎がこれを拝領しました。しかし三斎は財政困
難というか家計不如意のため、これを手放すことになり、安国寺恵慶が所
有するところとなりました。そのため安国寺肩衝と呼ばれるようになりま
したが、一部では以前のままの有明肩衝と呼んでいます。黒飴色釉の中に、
白鼠色の斑文が一面にあるのが、この茶入の特色と言われています。また
この茶入は「中山肩衝」とも呼ばれていますが、そのことをも含めて、こ
の茶入の辿った物語りを語ってみましょう。

 安国寺恵慶は関ヶ原の戦いの後、捕らえられて京都四条河原で斬首の刑
に遭い、この茶入は戦前からの約束で、徳川家康から津田小平次秀政に下
賜されたのです。それからどのくらいの時が流れたのか、さだかではあり
ませんが、ある日、津田の茶会に招かれた細川三斎は、久方ぶりにこの茶
入に出会い、愛惜の念を抑えきれずに、主人が水屋に立った隙を窺って、
密かにこれを懐にしまい込み、「年たけて又越ゆへしとおもいきや命なり
けり小夜の中山」という西行法師の歌を、主人への伝言に残して辞去して
しまったのです。その時の三齊の心情は、まさにこの歌そのものだったの
でしょう。

 三齊は帰宅後使いをおくって、黄金二百枚に時服一領と酒樽・肴を添え
て、自分の行った無礼を詫び、改めて、この茶入の譲渡を願ったのでした。
津田秀政は三齊の熱意に感じて、これを譲ることにしたのですが、黄金だ
けは受け取ることを承知しませんでした。結局、三齊は考えた挙げ句、津
田のために一寺を建立したと言われています。これらのことから「中山肩
衝」とも呼ばれるようになった、と言われています。

 のち1627(寛永4)年に、その頃豊前国小倉藩三十九万九千石を領してい
た細川忠利(1586〜1641・細川忠興の三男・母は細川ガラシャ)は領国豊
前が飢饉に見舞われた時に、この茶入を黄金千五百枚に代えて、飢餓に苦
しんでいる領民を救ったと伝えられています。

 のちこの茶入は庄内藩侯酒井忠勝のものとなり、1648(慶安元)年に忠
勝の子・忠当が幕府に献上、それをまた上田城主・松平伊賀守が拝領する
ところとなり、それ以来、同家に伝来していたのですが、明治維新後、武
家社会ではなくなり、困窮した同家が1913(大正2)年に売立(競売)を行
った時、益田紅艶と言う人が落札しました。この時はほとんど裸同然で売
り立てられたために、人目を惹かず、注目もされずに、僅かに八百円の値
だったようです。
註:前号で明治・大正時代の物の価格を書きましたが、それを参考に、そ
の八百円が現在のどのくらいの金額なのか、計算しても面白いかと思いま
す。

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夢庵も第1号からの愛読者でした。そして現在はアメリカを拠点にして
世界に向けて『My American Literature』を配信しています。
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○「陶芸なんでもかんでも」
          発行者  稻葉 夢庵
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